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吉永小百合さん 毎日新聞に語る「戦後60年の原点」
過去を見つめて
朗読で伝えたい戦争の悲惨
――沖縄戦を題材にした朗読のCD「ウミガメと少年」を今月出されました。原爆詩の朗読を続ける中で、やはり沖縄へのこだわりがあったのでしょうか。
◆一九六八年に「あゝひめゆりの塔」という作品で女子学生を演じ、伊豆や御殿場で撮り終わってから、ひめゆりの塔に行きました。あまりに悲惨なシーンぱかりで、冷静な芝居ができず、沖縄の痛みをわからない人たちには、私たちの演技では伝わらなかったのではないかという思いを長いことしていました。
――今回の朗読のきっかけは何ですか。
◆沖縄へは遊ぶために行ってはいけない、という思いが強かったんです。あれだけの人が亡くなつている。その海で遊んだりはできないと。昨年一月に「北の零年」という作品の公開で沖縄を再訪し、舞台挨拶でそのことを素直にお話ししたんです。そしたら、沖縄の人たちが、「沖縄というところは、つらいことがいっぱいあったけれど、どちらかといえば、悲劇よりは喜劇が好きなんだ」って。それで、私がそういう否定的な部分でこだわっているん
じゃなくて、もっと沖縄に来て、その中から自分の答えを見つけた方がいいかなと思うようになったんです。
たまたま、野坂昭如さんの「ウ三ガメと少年」という作品が中学の教科書に採用されて。原爆詩の嘲読のCDを作った後、どうしたら沖縄のことを伝えられるのだろうと悩んでいて 「そうだ、これをCD化しよう」と思いました。
――八六年の夏、ドラマ「夢千代日記」で知り合った被爆者団体の方に朗読を依頼されたのが、原爆詩との出合いとか…?
◆そうです。東京・渋谷の山手教会という小さな教会で反核集会があり、二〇篇ほどの詩をいただいて、私が読めるものを選んでほしいということでした。
峠三吉の詩は知ってたんですけど、ほかにも驚くほど素晴らしいものがあって。読んでいて自分で感極まったというか、何か心が震えるような思いがしたんですね。その後、広島の高校とか学校関係で少しずつ朗読するようになりました。でも、一人で朗読していたのでは、数もそんなにできない。一〇年ぐらいたった時にCD化を思い立ち、最初の企画から、詩を選び音楽を依頼することも、すべて自分でやりました。
――これまで多くの作品に出演されました。「平和」という言葉を最初に意識したのは、どのあたりなのでしょう…。
◆「平和」というのじゃないのですが、その前に「原爆」を意識しました。「愛と死の記録」(六六年)という作品です。大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」の中に一つのエピソードが書かれていて。原爆症の青年が亡くなり、その人を追って恋人が一週間後に自殺したという本当に短い話。それをシナリオ化して渡哲也さんと演じたんですね。広島で長いことロケをし、原爆病院でも撮影しました。その時、初めて原爆はこんなに大変なものなんだと知りました。子供のころは原爆よりビキニの灰の久保山愛吉さんの容態をラジオで聴いていて心配したのを覚えています。でも(広島・長崎の)原爆というのは、考えたことも無かった。ただ、戦争とか平和という意味では「戦争と人間」(2部・七一年、3部・七三年)という作品の影響は大きかったと思います。
山本薩夫さんという方が本当にそういうものをきちんと見る目を持った監督さんで。五味川(純平)さん原作もそうですけど、そういう作品に出たことは、すごく大きかった。映画に出ることで、自然に平和学習をさせてもらえたっていうことはありますね。
人間として九条守る
――女優として平和のメッセージを伝えていく使命感でしょうか…。
◆そういう意識はないんです。「戦争に行きましょう」みたいな役はやりたくないとは思っています。だけど役者ですから、いろんな役をやるのは当然のこと。ただ人簡としては絶対に憲法九条を守って戦争には行かない。日本は戦争には参画しないし、世界中が九条みたいな憲法を持てば、戦争はなくなるわけですから。そうなってほしいし、それは人間としての自分の願いです。人間として自分ができることは何だろうと考えると、俳優という仕事をしているから、朗読だという、そういう関係ですね。
――むしろ個人として。それが吉永さんの原点なんですね。生まれたのが、東京大空襲の三日後とうかがっていますが、それが影響しているところはありますか。
◆そうですね。はい。実際には何も覚えていないけれども。父が体が弱く、戦争に行ったんですが帰された。もし、そうじゃなかったら、私は生まれていなかったかもしれないし、父は死んでいただろうし…。
だから、あの時代に自分が生まれて、生きていたこと自体が幸運なことだと思います。東京の山の手だったんですが、五月の空襲では家のすぐ近くまで焼けたと親から聞いています。そういう中で生き永らえた。死んでいった人たちの分もしっかり生きなきゃいけないなと、最近思いますね。(中略)
過去を知り、反省し、乗り越えるのが人間――
――最近、昭和三〇年代が注目されていますね。今より平和な風景があったのかもしれません。今、平和を感じる瞬間ってありますか。
◆日本にいると、そういうことをじかに感じるって、あまりないですよね。だから日本人はあまり考えなくなっちゃうんだけど。
一方で半島から攻撃されたらどうするとか、憲法変えなきゃいけないとかいうことがまことしやかに言われたりね。本質的なところで考えていないところがありますよね。もっと積極的に平和にかかわるというか、みんながそういう意識を、これから逆に持たなきゃいけないなと思うんですよね。
――六○年前の教訓はあまり生きていないと…。
◆過去に何があったかというのを見つめようとしない国民性というか、そのあたりが問題だと思うんですよね。、あったことはあったこととして、きちっと知ったうえで、乗り越えたり、反省したりして、生きていくのが人間だと思うんです。だけど、「あれはなかった」と言っちゃったりすることがありますよね。それは、すごく悲しいことだと思うんですよね。
――いまの世界は、例えば、テロをなくすという理由で新たな戦争が起きたり…。
◆目には目をみたいな、本当に。エンドレスでどんどん、むしろ拡大していますよね。とっても悲しいし、時にはすごい無力感を感じますけれども。核兵器の廃絶だってね。なかなか実現しない。でもあきらめたら、もう終わりだと思いますね。
――語り続けるしかないのでしょうね…。
◆自分のできる限り、朗読を通して戦争の無意味さ、悲惨さを次の世代に感じさせたいですね。声高じゃなく、静かに、静かに読んで、それで何かがみんなの心に残れば…と思いますね。
【聞き手、河野俊史・毎日新聞東京社会部長】
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【呼びかけ人訪問】
随筆家・梅田恵以子さん
戦争は若い命を守らない
私は詩に平和を託す
五月二九日。久しぶりの晴れ間。「九条の会・わかやま」佐古田さんと二人で、呼びかけ人の梅田恵以子さんを訪問。少し前まで体調を崩し、楽しみにしていた「5・13輝け!憲法九条平和のつどい」に参加できなかった梅田さんに、その成功の報告と近況をお伺いするための訪問である。
梅田さんは 「病みあがり」という当方の勝手な思い込みははずれ、思いのほかお元気。
実は(私事で恐縮ですが)梅田さんご夫妻は、小生(編集子)の長女の結婚媒酌人なのです。
それももう二〇年前の話で、多くの媒酌人をつとめられているご夫妻のことだから、当然お忘れだろうと思っていたが、挨拶代わりにそのお話をすると、娘婿のことを覚えていてくれた。そのまま話は弾み、澤地久枝さんと同年の梅田さんの戦争体験談へと話が進みます。
「私の書いたものから判断して、みなさんは『梅田は戦争を語らない』と思っているようですが、そうではないんですよ」と、未完成の詩を見せてくれた。
「花びらと涙と」
忘れられない少女の日
花びらと涙と 私の悲しい桜
ながい戦争があって
長い苦しみがあって
たくさんの人が死んで
たくさんの町が焼かれた
少女は劫火の中を逃げ惑い
地獄を垣間見た
焦土の匂いくすぶり続けるのに
季節が巡ると桜が咲く
うす桃色の桜が咲く
この輝きに戦争はない
警報のサイレンに
月夜の花を恐れた
その明るさを恐れた
忘れられない少女の日
花びらと涙と 私の悲しい桜
志願した少年兵
そのの凛々しさをあこがれた
小旗をふって見送った
勇ましい軍靴の音
道をたたきながら遠ざかる
そしてそのまま
行きて還らぬ 行きて還らぬ
「七つ釦に 桜に錨」
「聞け わだつみの声」
あの国の守りは
若桜は 若桜たちは
いさぎよく散る桜
咲かずに散った悲しい桜
万恨の思いこみ上げる
いまその若き命を惜しむ
私はその命を惜しむ
花びらと涙と悲しい桜
いまこの詩は、同じ呼びかけ人である和歌山大学名誉教授の森川隆之さんに作曲を依頼されています。
直截的に「戦争はダメ」ということは誰でも言えるが、この詩は若い命の尊さを悲しい桜にたとえて、読む人の心奥に静かに訴え、梅田さんの人柄が偲ばれる詩ではないでしょうか。
少年兵を見送ったこの詩の思い出や、大阪市で焼け出された梅田さんの戦災体験、昔日の水軒浜の景観などの話で、ついついご主人の食事準備の時間まで話込んでしまい、帰りがけには編集子の糖尿病を心配して、よく効くという中国茶まで頂戴しました。あの日以来、頂いた「大葉落丁茶」は毎日1リットルづつ欠かさず愛飲しています。ヘモグロビンA1C値を減らしての再会が楽しみです。(Y)
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