「九条の会・わかやま」 20号を発行(2007年1月10日)

 新年第2回の20号です。1面は、昨年末にも続けられた各地九条の会の多彩な活動、群馬の「九条の会ネットワーク」の話題も。そして「九条噺」。2面は、1面につづいて経済同友会終身幹事品川正治さん講演など各地の取組。そして、月山桂さんの「戦争とはかくも虚しきもの」連載第3回「学徒出陣②」です。夢多い学生の日々を無残に断ち切った「徴兵猶予停止」。状況と心情を具体的に語ります。
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[本文から]

憲法九条「守ろう・広げよう」日本列島へ
  年末も正月も九条守る活動続く

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     安倍内閣は対中韓関係では柔軟さを装いながら、防衛省昇格や教育基本法改悪に続き改憲手続法成立を目指し、改憲に向けて猛進しています。一方で「戦争する国にさせない」「九条を守ろう」と草の根運動が全国に広がっています。
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 青い目の人形を守って  秋田・羽後の会

 秋田県羽後町の「九条を守る羽後町民の会」が11月24日に「町民の集い」を開き、130人余が参加しました。1920年代、日本とアメリカの友好親善使節として贈られたアメリカ生まれの青い目の人形が太平洋戦争が始まると一転、「敵国のシンボル」として軍部が焼却・廃棄を命令。「非国民」という脅しのもとでも、人形を守った人たちがいて小学校に保存されていました。人形を会場に展示し、その思い出を書いた藤野美登子さん(85 元教育委員)の文章を朗読。人形の存在さえも認めなかった暗い時代をふり返り、愛国心を強要する教育基本法改悪に、怒りを新たにしました。

 詩人 小森香子さん講演  愛知・岩倉九条の会

 愛知県岩倉市の「岩倉九条の会」は12月3日、結成1周年を記念して、「九条を守ろう市民のつどい」を市公民館で開き、120人余が参加しました。会場に絵画や絵手紙、手芸作品を飾り、九条クッキー・コーヒー、書籍コーナーも設けました。
 高校生のエレクトーン演奏で幕を開け、詩人の小森香子さんが「青空は青いままで子どもらに伝えたい」と題して講演。最後は小森さん作詞の「青い空は」を「岩倉九条の会・平和をうたう合唱団」とともに参加者全員が歌って締めくくりました。

 竜馬の故郷でも  高知・ながはまの会

 名勝桂浜で有名な高知市長浜で、憲法改悪に反対する「ながはま九条の会」が12月16日、発足しました。結成総会には約80人が参加。準備会代表・横田恒夫さんが「改悪教育基本法が強行されたが、全国津々浦々に反対運動が広がった。新しい段階に入った憲法を守るたたかいを全国の仲間とともに頑張ろう」とよびかけました。建交労組合員が創作紙芝居を上演し、高知短大の仲哲生教授が講演。

 映画と講演の夕べ  神奈川・えびなの会

 神奈川県海老名市の「えびな・九条の会」は12月1日、「映画と講演の夕べ」を市内で開催し、約100人が参加。会場は超満員になりました。「九条の会」の小森陽一事務局長(東大教授)が「憲法と教育基本法をめぐる情勢と私たちの課題」と題して講演。ユーモアを交えながらのわかりやすい話に参加者は熱心に聞き入っていました。

 九条の一字一句守る  長野・穂高の会

 長野県安曇野市の「憲法九条を守る穂高の会」のよびかけ人のSさんが、憲法九条の大切さを訴えて市内の労働組合を回りました。訪問した労組では「署名用紙150枚ほしい」と依頼があったり、別の労組からは署名済み用紙が送られてきました。
 地域の行動では、署名した後、わざわざ自転車で追いかけてきて「大切なことをいい忘れていた。父親が出征してシベリアに抑留され、数年後に帰国した。憲法九条は一字一句変えてはいけない]と訴える人もいました。

 一周年で記念集会  名古屋・熱田の会

 名古屋市熱田区の「九条の会」は12月24日、発足1周年記念集会をひらき、200人が参加しました。一昨年12月の発足以来、300人余の人が入会しています。
 集会では中日ドラゴンズの佐藤毅さんと竹内平弁護士が対談し、佐藤さんは自らの戦争体験にふれ「企業経営者も含めて、恋人や家族を戦場に送りたいと思っている人はいない。改憲が戦争に参加するのが目的ということを、堂々と語り広げていけば必ず阻止できる]と話しました。

 県内の運動で交流  群馬ネットワーク

 「九条の会・群馬ネットワーク」が12月24日結成され、前橋市で交流の集いを開きました。前橋三中地区九条の会、利根沼田九条の会など九つの「会」がよびかけ、26の「会」から60人が参加しました。

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【九条噺】
 今回も井上ひさしさんのお話の続き②です▼日本は戦争をしないという立場から日朝平壌宣言と6ヶ国協議を手がかりにして、平和的解決へ向けたイニシアチブを発揮するべきではないでしょうか▼日本は今、世界に非常に大きな文化的影響を与える国になっています。日本のアニメが世界的に評判になっていることは有名です▼寿司や懐石料理、醤油なんかもそうですし、イタリアのアルマーニが70年代の初めに売り出したソフトスーツも、「なんとか肩の凝らないスーツは作れないか」と考えていて、日本の羽織を見て「これだ」と気がついたものなのです。映画の世界ではクロサワ、ミフネを知らない人はいません▼そうした「ソフト」、つまり生活を豊かにするアイデアや文化で世界に影響を与えている中で、日本が武器を持たず、戦後60年間、一人も殺さず、一人も殺されたことがないという事実は、外国から見ると不思議な偉い国なのです▼漫画、寿司、ソフトスーツなどをすべて束ねた「御大将」が「戦争では何も解決しない」というすごい思想なのです。それは日本が唯一の被爆国として、それだけの責任を人類全体から負ったということだと思います▼核の恐ろしさを訴え、あれほどの後遺症が残ることに人々が気づいて全国的な運動に広がりました。そしてヒロシマ、ナガサキ、日本の市民が世界に向けて核廃絶の声を上げ続けました▼それが世界に深く染み込んで第3の被爆都市をつくらせなかった。南半球がすべて非核兵器地帯となったのも、日本の市民たちが核が使われるとどれほど悲惨なことになるか声をあげてきた、その影響です。
(話はまだまだ続きます。お楽しみに)

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憲法九条「守ろう・広げよう」日本列島へ
 日本各地で 経済人・品川正治さん講演会
 東京で音楽家がコンサート

 戦争起こすのも人間 止めるのも人間
  品川正治さん講演会に300人

 12月6日、奈良県文化会館小ホールで「非核の政府を求める奈良の会」と「九条の会・奈良」が共催して、経済同友会終身幹事の品川正治さんの「戦争、人間、そして憲法九条」と題した講演会が開かれ300人が参加しました。
 品川さんは、旧制三高(現京大教養課程)在学中に召集され、中国最前線で一兵卒としてたたかった体験を一時間半にわたって講演。
 「戦争を起こすのも人間、戦争を止めるのも人間、これが私の人生の座標軸」と話し、日本国憲法9条2項が、戦争をなくし、飢餓や貧困、環境という21世紀の課題を解決するうえで大きな意義をもっていると指摘、「イラクへの自衛隊派兵で9条2項の旗はポロポロに なっている。しかし、旗ざおは国民が握っている。国民が憲法改定にノーと言えば、政権をもゆるがし、日本が大きく変わり、世界の歴史が変わる。82歳になってよくぞここまで生きた。残る人生を9条2項を守るために尽力したい」と力強くしめくくり、会場から大きな感動の拍手が起こりました。
 このほか、品川正治さんは11月3日には、滋賀県革新懇主催の憲法講演会で300人の参加者を前に、また、12月15日には大阪革新懇主催の憲法講演会に招かれ、700人の参加者に語りかけました。いずれの会場でも参加者から必ず「経済界はなぜ憲法改悪を主張するのか?」という共通の質問に、品川さんは「軍事力を背景に、アジアでの(経済的)ヘゲモ二ーを握りたいと考えているからだ。しかし戦争をしているアメリカのスタンスでアジアを見るペきでない」と答えているのが印象的です。

  音楽・九条の会コンサート  12月9日/東京

 「平和でこそ美しい音楽が花開く」を合言葉に「音楽・九条の会」が、9日午後3時から東京のRSアートコー卜(労音大久保会館)でコンサー卜を開きました。
 出演は、ウクライナの民族楽器バンドゥーラの奏者、ナターシャ・グジーさんです。ウクライナ生まれのナターシャさんは1986年、チェルノブイリ原発事故で被ばく、故郷を離れてキエフへの移住を余儀なくされました。その後バンドゥーラの響きに魅せられ8歳から 音楽学校で学び、2000年に日本で本格的な活動を開始。チェルノブイリ救援コンサー卜や日本のうたごえ祭典、各地の平和コンサー卜に出演、澄んだ声と哀愁を帯びたバンドゥーラの音色で、ウクライナ民謡や日本の歌を歌っています。コンサー卜では、中央合唱団女声アンサンブルふきの会、大田あじさいコーラス、女性のうたごえ東京「希望の灯合唱団」が 共演しました。

  岡山にマスコミ九条の会

 岡山マスコミ九条の会は12月10日岡山市民会館で発足記念講演会を開きました。100人を超える放送関係者やOB、市民らが参加。
 元広島市長で元中国放送社長の平岡敬氏が「歴史に学ぶ―メディアの役割と責任」というテーマで記念講演し「日本の侵略戦争と戦後の歴史を振り返り、マスコミも市民も真に報道すべきこと、めざすべき社会について絶えず問いかけることが大事。いま再び言論弾圧・統制が徐々に強まっているのに、マスコミの反応は鈍い。市民とともに反撃する勇気と覚悟を持ってほしい」と訴えました。

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「次世代に伝えたい」 月山桂氏の戦争体験 [3]
  戦争とはかくも虚しきもの

    学徒出陣 ②

 この学徒出陣は、1943年(昭和18年)9月23日に決定された国内体制強化方策と して、戦争への国民動員の徹底として行なわれたもので、法・文・経学生の徴兵猶予の停止という形で行なわれた。このことは10月2日の官報の掲示によって明らかにされた。それまで「在学の事由による召集の延期」が認められていたものを勅令をもって「在学の事由による召集延期」は当分行わないとされ、この勅令は同日公布、即日施行されたのである。
 私は浪人生活ののち、1941年3月(昭和16年3月)中央大学予科の2年の編入試験に合格した。普通なら昭和18年3月に予科の課程を終え、大学に進学するはずのところ、修業年限6ヶ月短縮のために昭和17年9月に1年6ヶ月で予科を終え、同10月に大学法学部に進学することになった。私にとっては短すぎる予科生活だつた。

 青春の夢、無残に断ち切られ

 この当時の私は、河合栄治郎の「学生と教養」、「学生と生活」、「学生と…」を地で行く由由を求める夢多い学究の徒であった。英米法の守屋善輝教授に可愛がられ、一日じゅう先生の研究室をお借りし先生につきまとって教えを請うという、懐かしく楽しい日々であった。当時はもう、開いている喫茶店は少なかったが、先生はよく銀座の「伍廊」や、神保町の「キャンドル」へコーヒーを飲みに私たちを連れて行ってくださった。そして私は、法学部1年の学年末試験の結果「特待生」に選ばれ、法学部2年の授業料は全額免除されることとなり「英米法研究会」でも上級生そこのけの成果を上げていると自負していた。まさに花の青春。
 そのような中で突然の召集延期停止措置。この措置は、果てしなく続くだろうと思っていた私の青春の夢を容赦なく断ち切るもので、私は一転、象牙の塔から戦の庭に引き出されることとなった。最初、この措置をおぼろげながら聞いたのは、学年末で和歌山に帰省中のことである。まさか、という思いのまま上京し10月上旬に、召集延期の停止措置を確認したのである。
 そんな中でも大学の講義は従来どおり行われていたし、学徒の召集延期停止措置にともなう徴兵検査等の国の方針も不動のものとして進められていた。無念に思いつつ国家非常時の折から、この国に生を受けた者として国の要請に応えるべきは当然であり不可避であった。召集延期の恩典に浴しえない同年輩の者との均衡から考えても、止むを得ない当然の措置と諦観した。こうなった限り、私は激しい戦野の戦いに耐えうる肉体を作る必要があると考え、毎朝半時間の駆け足を始めたが、登校、研究室通いは従来どおり続けた。
(次号へ続く、お楽しみに)

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(2007年1月10日入力)
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