「九条の会・わかやま」 23号を発行(2007年2月10日) 23号が2月10日発行されました。1面は「守ろう憲法!許すな改悪教基法!2・3東京集会」、「防衛シンポ」で前原・民主党前代表「自民党と変わらない」、民報労連臨時大会「改憲阻止、国民投票法案反対」、そして「九条噺」。2面は、新年の地方紙論調、和歌山と奈良の共同センターの取組、月山桂氏の「戦争とはかくも虚しきもの⑥」後方任務だからよいと思った輜重隊が…。 | |
【守ろう憲法! 許すな改悪教育基本法! 2・3東京集会】
国民投票法案とのたたかいの重要性強調-渡辺治教授
渡辺治一橋大学教授が「安倍政権は教育基本法改悪と改憲で何をめざすのか」と題して講演し、改憲手続き法(国民投票法)案を通さないたたかいの重要性を強調しました。
▼民放労連・臨時大会 民放労連の「第104回臨時大会」が東京で27、28の両日開かれ、「平和な社会でこそ言論と表現の自由は保障される」として「改憲への動きを阻止し『放送』を改憲に動員する国民投票法案に断固として反対する」と表明。井戸秀明書紀長は、「放送現場に大きな影響が出てくる問題です。改憲手続き法ともいわれる、この法案に反対することは放送労働者の組合の責務」と述べました。
「自民党と変わらない」 2月4日付「しんぶん赤旗」の報道によると、3日に「防衛シンポジウム2007in京都」(京都府防衛協会青年部会主催、京都府など後援)が京都市で開かれ、麻生太郎外相が講演。民主党前代表の前原誠司衆院議員(京都2区選出)が石破茂元防衛庁長官らと討論したそうです。その中で、麻生外相は「日本は米国に守られているのに、米国が攻撃されたとき日本が逃げたのでは話が通らない」と述べ、自衛隊の海外派兵の実績、核抑止力論に触れ持論を展開しました。後半の討論で前原氏は、有事法制の制定を自慢し、「石破さんといつも議論しているが(私と)意見がかわらない。なぜ党が違うんだと言われるくらいだ」「私たちの願う二大政党制とは(二大政党が)外交や安全保障でブレがないという政権構想だ」と述べ、憲法「改正」についても、前原氏は「私としては、国会両院の3分の2以上というのは可能」と語り、「共産党や社会党の残党は『九条を守ることが平和を守ること』という勝手な平和主義、九条『改正』することは戦争の道に進むというプロパガンダをばらまいている」と言い放ち、さらに、幕間には防衛協会青年部会の宣伝があり、前原氏も青年部会会員であることが紹介されたと報じています。戦争のない平和な戦後に育ちながら、この無鉄砲な振る舞いには背筋が寒くなります。
【九条噺】
《憲法問題》地方紙が積極的論調を展開 2007年新年の新聞論調で「憲法」はどう報道されたか。連合通信が検証しています。興味深いので紹介します。
▼改憲論の読売は、改憲を待たず《集団的自衛権「行使」を決断せよ》と呼号、産経は勇ましく《「専守防衛」見直す時だ》と(先制的防御)論を主張している。「突撃…っ!」と叫んでいるようです。
≪各地の活動を伝える≫
寮法九条を守る和歌山市共同センターは27日、和歌山市のあいあいセンターで「9条を守る新春交流集会」を開き80人が参加しました。
改憲手続き法案廃案に
「憲法九条守れ!奈良県共同センターは2日、奈良市内で第9回学習交流会を開き、約40人が参加しました。集会では佐藤真理弁護士が「改憲=壊憲のための毒入りカラクリ」と題して講演しました。佐藤さんは「与党と民主党の両党案に共通する、恐るペき内容と仕組みを急速に知らせることが重要」そのうえで∇国会の多数派(改憲派)が国会発議後も国民の討論に介入し、改憲派情報だけが広がるようにする∇公務員、教育者などへの運動規制など国民投票運動の「萎縮」をねらう▽「最低投票率」や「絶対得票率」を定めず、わずかな賛成で憲法改悪ができる仕
組みなど、6点にわたって法案の問題点を指摘しました。また佐藤さんは、この法案があまりに不公正でひどい内容であることや、「九条の会」の広がりなどにふれ、改憲手続き法案阻止の展望はある、と訴えました。
[6] 「次世代に伝えたい」 月山桂氏の戦争体験 徴兵検査② 画策が裏目に このM検が、男子が成年として一人前に成長したことの検査ともいえるもので、恥ずかしいとか、見得・体裁をかなぐりすてて素っ裸で人前に立ち、兵隊社会に突入する前哨戦みたいなものに思えた。この外に徴兵検査で私は、ちょっと口にし難い恥ずべきことをしでかした。それは扁平足の検査である。このことはM検と同じく中学生時代から聞いていたことではある。私の実家は和歌山市吹上の砂山にあり、近くに中部24部隊(歩兵連隊)があったことから歩兵連隊の演習の厳しさは身近に見ていたが、もっとも歩兵以外、例えば輜重隊の演習などは見たことはなかった。それに歩兵は「白撃戦の花」といわれ、第一線の攻防では敵と対峙しドンパチやらなければならないのだから戦死の可能性は高い。できれば戦死はしたくない。行軍や演習も24部隊のようなのはご免被りたい。願わくば歩兵は避けたい。「できれば後方支援の輜重隊に」という一念から、私は扁平足検査の際、足の裏に水をたっぷりとつけ、土踏まずまで足跡がつくようにして床を踏んだ。これが効を奏して「お前は歩兵の行軍は無理だ」ということで念願の輜重隊に入隊できることになった。しかし、これが大失敗だったことは輜重隊入隊後すぐ思い知らされた。輜重隊は確かに後方からの支援部隊には相違ないが、私が配属になった駄馬部隊は野戦部隊の中で歩兵等がドンパチやっている最も近くまで弾薬・食料を輸送する部隊で、それかといって戦う部隊ではないから装備は極めてお粗末。銃も三八銃ではなく当時はもう弾丸も造られていない村田銃。輸送中に襲撃を受ければ、馬や輸送品を敵に奪われないよう逃げ隠れするのが精一杯である。己の命を守る武器すらないのが当時の輜重隊、馬部隊であった。行軍の苦しさも歩兵は自分の世話だけすれば足りるが、馬部隊の場合は、自分が歩く他に馬に荷物を負わせて歩かせ、休憩 の場合も先ず馬の荷を降ろして休憩させ、余りの暇があればこちらも休憩できるというもので行軍の苦しさは歩兵の比ではない。私は後に経理部幹部候補生となり中部第22部隊に配属されさらに関東軍の経理学校に転属して、歩兵の行軍は楽であることを身にしみて覚えた。しかし、徴兵検査当時は、このよう実情は知る由もなく、要領よく検査をごまかして輜重隊に入隊できるようになったことを、浅はかにも喜んだものだった。私にとって徴兵検査は民間の生活・学生生活と軍隊生活に切り替わる過程での忘れえぬイベントであった。 (次回は最終回)
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(2007年2月15日入力)
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