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「九条の会」呼びかけ人 小田実さん死去
「九条の会」呼びかけ人・小田実さんが7月30日、死去されました。謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。小田さんを悼み、7月14日付の朝日新聞夕刊に掲載された小田さんの発言をご紹介します。
軍国化 日常の中で進んだ
――憲法が改正されても、今の日本が軍事大国になるとは考えにくい
戦争を知らない人は、戦争に向かっているときは街に軍歌が鳴り響き、みんなが日本の勝利をひたすら祈っているような異常な状況になると思っているらしい。でも私の経験では、ありふれた日常の中で進行し、戦争へと突入していった。
ヒトラーだって、議会制民主主義のルールの中で平和的に政権交代したんですよ。私が今一番憂えているのはね、民主主義の理想を説いたワイマール憲法をつぶしてナチ独裁政権ができたときと同じことが、日本で起きるんじゃないかということです。ヒトラーは憲法改正すらしなかった。ただ「国民と国家の困窮を救う」ために憲法を一時的に「棚上げ」すると議会で決め、再軍備に乗り出した。攻撃用の兵器をつくる意図はない、もっぱら防御用の兵器に限定し、平和の維持に資するつもりだと言ってね。反ナチの人まで「立派だ」と褒めたんだよ。でも事態はどう変わったか。
安倍さんは「美しい国」づくりのため改憲が必要だというが、なぜ必要かはきちんと説明しない。彼はなかなかの雄弁家だよ。小泉さんみたいにハッキリ言わないから、みんな、なんとなくそうかなと聞いている。どうなるかわかんないよ。
――憲法9条の平和主義は非現実的という人もいます
自衛隊は解消し、世界を非暴力の世界に変える努力をしなければならないと私がいうと、理想論だ、現実的に考えよう、自衛隊は憲法でちゃんと認めて歯止めをかければよい、自衛のためには軍隊がいるという人が増えている。でも、本当にそれが現実なのか。
戦争でいちばんつらかったのは飢えと空襲だった。食糧切符をもらっても現物がない。あと半年戦争が続いたら栄養失調で死んでたよ。今でも日本の食糧自給率は40%。それから空襲。日本は全然抵抗する力がなかった。石油がないから。飛行機も飛ばんよ。日本は「普通の国」じゃないんだよ。そんな国が自衛のためだろうが何だろうが、戦争なんてできますか。
いまの若い人は、この冷厳たる事実を知らんわけや。日本が戦争できるような顔してしゃべってる。理想でもなんでもない、現実ですよ。そこから出発しないと。
――98年に出版した『玉砕』が、米国同時多発テロ事件の後、英訳され、BBCのラジオドラマにもなりました
今も自爆テロは連日のように起きている。日本軍の絶望的な攻撃「玉砕」「特攻」は世界中に拡大しています。この小説が、9・11以降の世界を考える手がかりになることを期待するね。
――水も武器もない極限の中、祖国防衛の防波堤になろうと、圧倒的戦力を持つアメリカに持久戦を挑む日本兵が描かれてます
この小説を英訳したドナルド・キーン氏は、これを読むまで「玉砕した日本人は何かに酔っていたと思っていた」と言った。今でも多くのアメリカ人が、特攻や玉砕攻撃を行った日本人は狂っていたと思っている。本当にそうなのか。
私は玉砕した島へつぶさに行き、長い間考え続けた。そして、もし自分がそこにいたらと思って『玉砕』を書いた。
彼らはふつうの人間ですよ。酔ってもいない、狂ってもいない。いろんな過去を背負いながら極限状態に追い込まれて、自分なりに玉砕の意味を考えて苦しみ、戦い、死んだと思う。「狂った人間」と切り捨ててはいけない。誰にとっても、あなたにとっても、現在でも未来でも起り得ることだ。
――映画「硫黄島からの手紙」を連想しました
私が描きたかったのは「ことの是非はともかく日本兵は立派に戦って死んだ」ということではないよ。彼らは無意味に戦わされ虫けらのように死んだ。玉砕をただ美化して根源にある悲惨を見逃しては、本当の意味で彼らは浮かばれませんよ。
――小説の最後、恋人の兵士を殺され、ひとりアメリカ軍に立ち向かう慰安婦が登場します
現地の案内役から実際に聞いた話です。日本兵の足跡を追ってジャングルを歩き回った私は「あなたは信じるか」と言われて「信じる」と言った。玉砕の現実は悲惨なものですよ。大本営は最初は大々的に宣伝したが、あまりにも増えてきたら「士気が下がる」と何千人も死んだのに記録から削除した島もある。軍隊なんてそういうもんよ。そんな壮絶たる話の中で、かすかな愛があった・・それは我々の救いですね・・一つだけでもそういう話があったことをね、伝えておきたかったわけ
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【九条噺】
久間防衛大臣が「米国の原爆投下はしょうがない」と発言し、辞任に追い込まれた。核廃絶の先頭に立つべき日本の大臣の「理由によっては原爆を使用してもいい」ともとれる発言は論外であり、辞任は当然である▼問題は、久間氏の辞任の弁は「選挙の足を引っ張るから」というもので、反省の言葉が全くないことである。ということは、発言は自分の本心だということだろう▼「米国の考え方を紹介したもの」と全く問題にせず、「産む機械」や「ナントカ還元水」に引続き、かばいつづけた安倍首相の任命責任はさらに大きいと言わなければならない▼マッカーサーは「自分は原爆投下を聞いていなかった。聞いておれば、『日本は降伏の準備を進めており、投下は必要ない』と言っただろう」と語ったという。「米兵の命を救い、戦争を早く終らせるため」という原爆投下の正当化論には何の根拠もない。「あれで戦争が終った」という久間発言は米国に追随し、国際法違反の非人道的兵器を容認するものだ▼7月10日、政府は原爆投下に対して米国政府に抗議を行ったことは一度もないことを公式に認めた。「河野談話」や「村山談話」を継承すると口で言うだけで、侵略戦争のまともな反省をせず、米国に抗議もせずに、擦り寄る安倍政権は、集団的自衛権の行使を認め、米国と一緒になって戦争をするために、非核3原則をも投げ捨て、日本の核武装すら実行するのではないかという不安がますます強くなるのである。(南)
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憲法九条についての私の「異見」
「九条の会・わかやま」呼びかけ人・楠本熊一(和歌山県立医科大学名誉教授)
③侵略に備え庶民を守るための「自警団」を。国軍は庶民を守らない
私は戦争が如何に悲惨で無意味であろうとも、侵略者に攻めてこられれば、或る程度は抵抗しなくてはならないだろう。その抵抗とはインドの聖人ガンジーのいう非暴力の不服従ではない。ライフル銃やピストルまたは機関銃を持って戦うのである。部落総出で侵略者を抹殺しようとするのである。この様なことが出来る組織(竹槍ではなく最小限ライフル銃や機関銃のような武力を持った組織であり、訓練を繰り返し行う統制のとれた組織である)を作るべきである。津波が押し寄せてきたような災害時にする対処の仕方のように。この様な組織を自警団と名付けても良い。自警団には武器庫も必要であり、武器を調達する予算も計上しなければなるまい。この自警団は各市町村に少なくとも一つ存在する。そして自警団の団長は各首長が兼ねる。各自警団は互に連携を密にすることが大切である。誰かも述べているように、国軍は国の統治者やその組織を護るが本務で民衆を守りはしないものである。先の戦争末期において旧満州がそうであった。
過去を振り返ってみると、明治以後日清戦争、日露戦争とともに朝鮮半島と遼東半島並びに旧満州とでもっぱら戦ってきた。何故当時の朝鮮国との外交手段により戦争を回避できなかったのかと思う。そして今もそうであるが、外交が下手である。せっかちな国民性によるのと、理論とか理屈で相手を説得するのが苦手である。これだけ話しても分らないのであれば殴るしか方法がないと勝手に決めて、殴るのである。国のレベルでは相手国へミサイルを発射したり、砲撃したりするのである。気長に相手の軟化を待つ姿勢がない。そしてこの種の「相手を説得する仕方」の国民教育を明治以後等閑(なおざり)にしてきた嫌いがある。武力とか権力とか金力で威圧して相手を言いくるめる方法を採ろうとする。この方法は早く結果がでるが、予後がよろしくない。だからこの方法は最悪の方法であり、外交に使用してはならない。国際外交の向上には、この方面の訓練を小中学校から大いにやるべきだと思うが如何に。国際外交に携わる外交官になる人だけが習熟するのでは無く、誰もが外交上手にならねばならない。この種の習熟には、情報の採り入れ方や情報の価値判断も必要になる。また、この訓練によりどんな場合に偽の情報がもたらされるかも分るようになる。また、分るようにならねばならない。偽の情報を真の情報と勘違いしてその情報を拠り所として外交をするのは、その外交官の破滅に留まらず、国を破滅させるのである。日本ほどスパイの可能な国は世界中にないと言うではないか。(つづく、見出し編集部)
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ストップ「集団的自衛権行使容認」②
「九条の会・わかやま」事務局・南本 勲
「内閣法制局」を意のままにし、憲法解釈の変更を狙う安倍首相
内閣法制局とは
内閣の中に「内閣法制局」という組織がある。憲法は様々な問題をこと細かには規定していない。従って、具体的な問題では「憲法から見てどうか」という憲法解釈が必要となる。法令の解釈は最終的には裁判所の判決を通じて確定されるが、行政部内においては、内閣法制局が意見を出すことによって、その解釈が統一される。また、国会において、憲法などの法令の解釈などの法律問題について意見を求められた場合には、その答弁を行うことも役割である。これらを「意見事務」という。
内閣法制局の集団的自衛権についての憲法解釈
81年、集団的自衛権について内閣法制局は、政府答弁として「我が国が国際法上、集団的自衛権を有していることは主権国家である以上、当然であるが、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」と答弁し、これが歴代内閣の解釈として確定してきた。
内閣法制局は時々の政権の言うとおりに憲法解釈を変えないために存在し、政権の歯止めになっている。憲法解釈を内閣ごとに変えられるという考えが許されるならば、時々の政権の意向で何でもできることになり、公権力を縛る憲法の意味がなくなり、もはや法治国家とは言えなくなってしまう。
安倍首相の内閣法制局批判
ところが、安倍首相は首相就任前から、集団的自衛権について「保有するが行使できない」と解釈する内閣法制局を批判し、「内閣法制局が私の方針にのっとって整理研究等をするのは当然」と語り、歴代の首相が否認してきた集団的自衛権の行使を解禁すべく、「集団的自衛権有識者懇談会」を発足させた。
内閣が長年積み重ねてきた憲法解釈を、内閣自身が変更する場合、内閣の責任や信用に重大な関わりを持つ。内閣法制局が憲法解釈をする上で大きな役割を果たしてきたとしても、その解釈の責任は内閣にある。憲法解釈の変更は、政策の変更とは次元の異なる極めて重大な意味を持つのである。
安倍首相のゴリ押し
04年1月、当時の内閣法制局・秋山長官は「集団的自衛権は行使できない以上、保有していないのと同じ」と発言した。秋山元長官は、当時自民党幹事長だった安倍首相から「憲法上許されないという政府答弁について、『必要最小限』というのは数量的な概念であり、行使を研究し得る可能性はあるのではないか」と聞かれ、「『数量的ではなく質的な概念である』と説明したが、首相は当時の疑問が今も解けていない」と言う。
歴代首相が集団的自衛権の行使を「まっ黒」と言っているのに、それを「まっ白」にするのは、しょせん無理な話なのである。安倍首相のとりまきの「価値観議連」は集団的自衛権の相手国と共有すべき価値観として「法の支配」を掲げているが、自らが「法の支配」を破ろうとしているのであり、論外と言わなければならないのである。
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