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「九条の会・わかやま」は07年9月16日に結成2周年を迎えました。結成2周年によせて呼びかけ人にメッセージを寄せていただきました。順不同でご紹介します。
「九条の会・わかやま」結成2周年によせる 呼びかけ人のメッセージ
世界平和への礎 阿弥陀寺住職 髙木 歓恒 さん
お粗末な政変の交代劇が九月に起こった。その結果、多くの改正案が廃案となりそうである。憲法九条も改悪の恐れが少しは減ったかもしれない。先ずは一安心・・・、といって喜んでいるわけにはいかない。
問題は一国の総理の意向で大切なものがコロコロと変わることに、危惧を抱くのである。日本国憲法は、憲法前文に「恒久の平和」が、九条には「戦争の放棄」が明文化されている。この平和への希求は第二次世界大戦の敗戦の上にできた教訓であり、それは日本国国民が目先の国益利益ではなく人類にとっての永遠普遍の利益を求めた結果の憲法である。
私に言わせればこの憲法は人間がつくったものではない。人間の私利私欲を超えた神・仏の業であろうと理解している。
目先の利益に一喜一憂する今日の薄っぺらい信念しか持ち得ない政治家には、到底作り得ない崇高な理念である。我々は、敗戦によりこの憲法を持ち得たことに誇りを持とう。そして、その理念を世界に発信し続けねばならない。真の世界平和への礎はこの憲法の中にあると確信している。
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9条の論理が日本と世界の歴史を変える
和歌山市共同センター結成1周年記念集会 小森陽一氏講演
10月6日、和歌山市・プラザホープで、憲法9条を守る和歌山市共同センター結成1周年記念集会が開かれました。市内の3つの「9条の会」と1団体の活動報告にひきつづき、「九条の会」事務局長・小森陽一氏が「平和な未来へ・・」と題して講演されました。その大要をご紹介します。
参院選での国民の審判
国民は3つのNOを突きつけた。
1つは、構造改革、規制緩和で、国民の最低限の生活をも支えることをやめ、弱者を切り捨て、競争社会に放り出す政策に気づき、こんな社会はいやだとNOを突きつけた。
2つ目は、侵略戦争の美化にNOを突きつけた。沖縄の11万人の集会に見られるように、その力は根を張った力として形成されている。
3つ目は、9条2項を変え、アメリカに協力し、肩代わりする方向に持っていく安倍憲法改悪路線に対してNOを突きつけた。
年金が争点となり、表向きは憲法は争点にはならなかったが、9条を変えてはならないという国民の声が、一番底のところで大きく政治状況を動かし、安倍退陣に繋がった。
テロ特措法をめぐる論戦
テロ特措法を延長するという安倍政権に対して、民主党・小沢代表はテロ特措法延長に反対した。小沢代表は自民党時代に自衛隊の海外派遣に道を開いた張本人だが、これは9条改悪反対の底流があり、国民の憲法に対する意識が大きく変わってきていることを見越してのことだ。アフガン戦争、イラク戦争の燃費が日本の税金でまかなわれていることが、どんどん明らかになった。このままアメリカの無法な戦争に日本がついて行ったら危ないということに多くの有権者が気づき始めた。
これが参院選後の一番大きな転換点である。何故自民党と民主党が真っ向対決になったのか、それは、我々が大きな役割を果たしたからである。10数年来、与野党が改憲路線を決め、改憲反対は1党だけとなり、マスメディアは改憲反対を伝えなくなった。04年から「九条の会」が全国で多くの人たちに訴えたため、報道せざるを得なくなってきた。全国紙はまだまだだが、地方紙は8割が護憲となった。3年間で世論も変わった。3月に安倍前首相が改憲を参院選の争点にすると言ったが、「憲法9条を変えない方が良い」が多数派となった。自民党と一緒に憲法を変えるという方向で動くのはやめる決断を小沢民主党はした。与野党合意の改憲路線を破綻させる、そこまで世論の力ができあがった。この世論がテロ特措法延長反対を国会の争点にしている。インド洋での戦争は無法であると国民は知っている。9条を変えるということは、無法なアメリカの戦争を、今までは金で支えていたものを、今度は命まで差し出すということである。みんなで周りに熱く語ることによって「9条は変えない方が良い」から「変えてはいけない。変えずにもっと使え」の方向に転換させることができる。「九条の会」は、それぞれの地域で周りの人たちに「今、改憲の人たちが言うように憲法を変えたらどうなるか」を正確に証拠を挙げて語らねばならない。
自民党新憲法草案
自民党新憲法草案では、9条1項で戦争を放棄しているのに、どうして戦争ができるのか。アメリカの第2次世界大戦後の軍事行動は、全て「制裁」か「自衛」かのどちらかである。国権の発動としての戦争はしなくても、戦争はいくらでもできるのである。3項の「国際的に協調して」とは「他の国(アメリカ)と一緒に」ということであり、「緊急事態における」とは武力攻撃が予測される事態で日米安保条約による集団自衛権を発動するということである。76条3項には軍人を裁く軍法会議ではなく、軍事裁判所を設置するとある。緊急事態になったら有事関連10法で国民を裁判にかけるということだ。
21世紀の戦争
21世紀の戦争はどうなるのか。アフガン戦争、イラク戦争の実態は75%以上は民間委託だ。アウトソーシングの戦争となる。建設業、運輸業、医療機関なども戦争に引きずり出される。断ると軍事裁判だ。特別な人が戦争をするとか、いきなり徴兵制になるという訳ではない。そして、軍人になるしかない若者を戦争に行かせるために、格差を固定化しなければならない。安倍教育再生計画はまさにそのためのものである。イラク戦争ではアメリカの不法移民の子弟が3桁も戦死している。格差が固定した社会は戦争社会になる。
21世紀の世界
しかし、日本国民はギリギリのところで、「これはおかしい、こんなことをやっていていいのか」という戦争を見直す世論の底力が、勝手なことをやってきた者にぎゃふんと言わせようと大きく人々の気持ちを躍らせている。「こんな日本にするんですか。証拠はこれですよ」と訴え、「9条を変えてはいけない」「使おう」と訴える。使っていくとどうなるのか、この力を数歩進めると、アメリカが軍事力で世界を支配してきた歴史に終りを告げることができる。9条の論理でやることこそ平和への道だ。この運動は、守りの運動ではない、勝つための運動だ。
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【九条噺】
居酒屋「ワタミ」社長・渡辺美樹氏が朝日新聞に憲法について「改正恐れず『完全型』に」と書いている▼氏は「自衛のための武力を所有しているのが実態であり、現状は条文と実態が異なっている。こうした現実とのずれを解釈改憲で埋めてきたために、『拡大解釈』とか『解釈の相違』などという問題が起きている」「実態に合わせてどんどん改正し、常に完全な形であるべきだ」という▼9条には「戦力は保持しない」と規定されているのに、無理やり自衛隊を作り、「現実に自衛隊があるのに、それを明文化しない憲法はおかしい」と言っている。違法状態を作っておいて、法律を違法状態に合わせろという論法である。憲法前文は「日本国民は・・この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」といっている。違法の追認ではなく、適法の追求こそ我々の進む道である▼氏はまた「『自衛のため以外に軍隊が発動することはない』と憲法に明記すれば戦争はできない」という。かつて日本も一九二八年にパリ不戦条約に署名しておきながら、満州事変から太平洋戦争にいたるまで、「自衛」の名の下に侵略戦争を行ってきた。米国のベトナム戦争や旧ソ連のチェコスロバキア侵攻なども集団的自衛権の名の下に行われた。「自衛」という名目がいかにいい加減なものかを思い知っているはずである▼「憲法で歯止めをかければ大丈夫」というのは権力が信頼できるという前提である。現状の憲法も守れない権力を信頼する訳にはいかないのである。(南)
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ストップ「集団的自衛権行使容認」⑧
「九条の会・わかやま」事務局・南本 勲
「集団的自衛権」と「集団安全保障」
自分たちの国を守るのは自分たち・・?
「自分たちの国を守るのは自分たちだ」。これは主権国家である以上当然だと思える。しかし、果たして本当にそうであろうか。
自国を守るために軍備を拡大すると、軍拡競争となり、地域の緊張が高まることになる。紛争の火種を抱えることになり、地域の安全保障の障害となる。
国連憲章は集団安全保障
そこで生まれてきたのは独立国家の主権である戦争をする権利を制限して安全を確保しようという「集団安全保障」である。国連憲章は「集団安全保障」を原則としている。国連憲章には妥協の産物としての部分もあり、個別的自衛権、集団的自衛権を禁止することはできていないが、「集団安全保障」の枠組みで問題解決しようとしていることは明白である。
集団安全保障は共生の論理
「集団安全保障」は多くの国が友好関係を結び、相互に武力行使を禁止するという約束をして、互いの国家主権を制限する。この約束を破って他国を侵略することがあれば、他のすべての国が協力して、侵略を止めさせようとするものである。侵略された国が自衛権を行使して、反撃するという形ではない。仲間を信頼して、共同して問題を解決しようという「共生の論理」を前提としている。
集団的自衛権は排除の論理
「集団的自衛権」は同盟国の敵は自国の敵として反撃するもので、同盟国だけで結束し、それ以外は敵とみる、いわば「排除の論理」を前提としている。
同じ「集団」という名称がついているが、まさに「似て非なるもの」、正反対のものということができる。
日本国憲法は集団安全保障の考えに沿ったもの
日本国憲法は前文で「日本国民は、・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べる。そして、国家主権としての戦争を放棄し、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄しているのである。これは、まさに集団安全保障の考えに沿ったものと言っても差し支えないであろう。
(本稿は『憲法の力(伊藤真著、集英社新書)』から引用し、まとめたものです)
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