「九条の会・わかやま」 6号を発行(2006年9月20日)

 今号は、1面に和歌山県内で取り組まれている、すべての元学校管理職に「九条の会アピール」賛同を呼びかけるというユニークな取り組みのレポート。そして、本会呼びかけ人・画僧の牧宥恵さんの随筆。2面に本会呼びかけ人・エスペランチストの江川治邦さんによる和歌山空襲の生々しい体験と視点。そして「九条噺」です。
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「九条の会アピール」に賛同を
すべての元学校管理職に呼びかける

    「九条の会」アピールが大きな波紋を呼び、さまざまな取組みが全国各地で展開されています。和歌山県内では、学校元管理職(校長・教頭)に「九条の会」アピールへの賛同をよぴかけ広げる運動が取組まれています。この運動に関わっている「九条の会わかやま」事務局の阪中重良さんがリポー卜します。

各地域で広がる取組み

この取り組みは和教組が全面的にバックアップし、昨年夏から始まりました。すべての元学校管理職を対象に、「九条の会」アピールを届け賛同をよぴかけようというものです。八つの地域ごとに取組むことを確認し、全県的に統一した「呼びかけ文」と、県代表呼びかけ人(木下和之 和管組委員長)の他に地域では数人の地域呼びかけ人の名前が付記されています。
 八つの地域では、有志が世話人となって、地方の呼びかけ人づくりや文書の発送、訪問活動などに取組んでいます。今はまだ、中間集約の段階ですが、西牟婁地方ではすでに地方紙・紀伊民報に、「田辺・西牟婁地方小・中・養護学校元管理職九条の会アピール賛同者」が名を連ねた意見広告を出し、大きな反響を呼びました。また、西牟婁地方のすべての学校に「お願い」文を発送し、教育現場を励ましています。
 日高、有田地方でも取組みがほぼ終わり、賛同された方々は、地域の9条の会づくりなどで重要な役割を果たしています。
 私がお手伝いした那賀地域では、呼びかけ文と「九条の会アピール」を対象者全員に発送し、賛否はすべて訪問して聞くことにしました。留守もあって大変でしたが、訪問を待っていてくれたり、懐かしさに感動され、昔話に花が咲いたりでとても有意義な取組みになりました。ちなみに那賀地方では対象となる元管理職の総数は、一三一人。病気等で会えない人もあり、話ができた人は一二二人、そのうち賛同者は九六人。全対象者率で73.3%、対面率では78.7%という結果になっています。

「一言メッセージ」の一部を紹介します。

▼「八〇才をこえて体力は弱り、座卓を抱えている毎日です。みなさん方と交遊する機会もなく新聞とテしピ漬けで、残りの人生を何となく過ごしています。このような檄文をいただいて強い感動を覚えました。しっかり頑張って<ださい」▼「大正十四年生まれ。兵隊に四ケ月ほどいって終戦になりました。入隊の時、全員に白い紙3枚と白封筒が配られました。1枚は頭の髪を切って包み、一枚は手足の爪を切って包む、もう一枚は親への遺書。白い封筒に入れて大隊長に提出するよう命じられました。全員死を覚悟しました。戦争はしてはならない恐ろしいもの。自分の一生で一番嬉しかったことはと聞かれたら、迷わず、『終戦になり家に帰れたこと』と答えます」▼「憲法9条及び教育基本法の趣旨は良く理解しているつもりです。頑張ってください。側面から支援します」等です。

 全国的に注目される

 この運動は、すでに、八〇〇人を超える元校長・教頭からアピール賛同が得られていますが、千人を超える賛同を目標に一〇月末を目途に引き続き取組まれています。この取組みは、全国的にも希有で注目されています。 (報告・阪中重良)

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郷愁誘う風の盆     呼びかけ人・画僧  牧 宥恵

▼前回、亀田現象を書いたら殊の外、反響が多く自分でもぴっくりしていたら、高校野球で斎藤佑樹君(早稲田実業)のハンカチブームが来た。今になると、三七年ぶりの決勝再試合などどうでもよく、ハンカチだけが異様に日立つ感じがちょっと嫌だなあとも思ってしまう。しかし、この熱狂ぶりもわからないでもなく、八月中に同じスポーツでダーティー(亀田現象)とクリーン(斎藤君を中心とした高校野球)が同時にあったものだから、フィーバーは倍増されたのかもしれない。▼こういうことがあったりしたのでというのも変だけれど、海山へ一度も出掛けないまま終わってしまいそうだったが、九月に入ってす ぐ、富山市八尾町でやっている「風の盆」に出掛ける用事が出来て喜んでいる。▼この盆踊りは立春から数えて二百十日目に農作物の豊作を願って行われ、「おわら風の盆」として全国的に有名な祭りだ。哀調を帯びた楽器、胡弓を使うことで知られ、町内二万人の人口が最近では三日間で二〇万人に膨れ上がるようになってしまった、とんでもない祭りでもある。▼話を二八年前に戻す。この八尾というところ、僕の実家から車で四〇分程離れたところにある。その唄「越中おわら節」は小さいころから誰彼となく唄っており、僕の 叔父は名人と呼ばれる程の人で、子どものころは甲高い声で宴席などで唄われたりすると、いい唄だなあとは到底思えなかったのを覚えている。今回のカットに使った歌詞もそうだけど、結構つやっぽいと思うのは随分後になってからだ。▼八尾にこの時期になると、根来から今回のような色紙をかばんに詰め、フーテンの寅さんよろしく売りに行っていた。時代が騒々しくしていても九月の三日間、この町だけは山あいに流れる胡弓の響きが夜更けまで流れ、観光客も少なく、町の人だけが楽しむといういい祭りだった(色紙はそう売れなかったけど)。▼昔ながらの風情は消えつつあると言っても、僕にとってはどこか心の琴線に触れるまさしく風の盆である。二八年ぶりの風の盆は、昔と同じ音色と風情で会ってくれるだろうか。季節は確実に秋の入り口に来ている。(毎日新聞より転載)

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戦争は人の心の中に生まれる
 和歌山空襲体験と私の視点
    江川治邦  「九条の会・わかやま」呼びかけ人・エスペランチスト

    八月はやっばり戦争を省みる季節です。今回は江川治邦さんに体験談をお願いしました。

照明弾に照らされ十九万世帯炎上

 ある日、和歌山市上空の米軍機から日本語のピラが紙吹雪の如く舞い降りた。7月9日夜半に爆撃をするから退避せよ、とある。9日の夕方、焼失を恐れて貴重品を隣接する畑に埋めた。小学一年生の私は家族と共にリュックサックに米・塩・乾パンなどを詰め込み、 防空頭巾を被って和田川をめざした。南中島から紀三井寺に向かう道には何十頭という牛が杭に繋がれている。当時は農作業に必要な牛の多くを家屋の一角に飼っているため、戦火により焼死したり、火を見て暴れて家を壊すことを心配した。子供達は家族に手を引か れながら牛に蹴られないように恐る恐るそばを通り抜けて行った。和田川の堤防や浅瀬はすでに避難者であふれ、多くは女、子供、老人であった。たくましい青年の多くは出兵していて集落には数少ない。敵機来襲を怯えながら待つ夜半、真暗な和田川にどよめきが起 こる。飛来したB・29が和歌山城上空で照明弾を放つと同時に爆撃を開始したのである。照明弾に照らされて炎上し落城する虎伏城に涙する者、恐怖におびえ泣き出す者など騒然となった。B・29は和歌山市周辺から遠巻きに旋回しながら中心に向かって焼夷弾(ナパーム弾)を投下する。まるで赤い雨が降っているような空爆である。十九万余人が住む民家がいっせいに燃える。

焼夷弾の雨に和田川は地獄絵と化す

 和田川の堤から遠望する和歌山市の大火災。市全体が炎に包まれ、天空に達した炎は深夜の町を真昼の如く照らし出し、その恐怖で私の手足が硬直し、歯茎が震えた。やがて阪田、田尻、和田川にも焼夷弾が降り注いだ。避難者は錯乱し泣き叫び、動揺の渦が沸き起こった。「だまれ!敵に聞こえるぞ」「早く川に飛び込め!」焼夷弾の直撃を受けなければ死なないということで、投下を見ては川に潜り、水面に顔を出しては息をつき、その繰り返しに疲れ果てた。木の橋や水門も焼夷弾で焼失した。銃弾で死ぬ者、負傷する者。それを見た肉親が発狂したように泣き叫ぶ。
 まるで川全体が地球絵だ。
 B・29が去り、やがて東の空が明かるくなり出した。九死に一生を得た人々は川岸に這い上がり、ぴしょ濡れ姿で黙々と戦禍にくすぶる自宅へと向かう。憔悴しきった私は子供心に「これが戦争なんだ」「大人達は、なんてバカなことをするのだろう」と思った。い つも上級生の先導で登校する途中で敵機が来襲すると「一発必中体当たり、見事轟沈させてみる、飛行機ぐらいは何のその」と、一斉に歌いだすのである。そんな戦意高揚の教育と大空襲という現実の落差を無常にも味あわされた戦争体験であった。

戦争犠牲者の九割が一般市民

 戦後の資料では、和歌山空襲のB・29は108機で、焼夷弾投下量は800トン。これは二〇坪の土地に平均6発が投下されたことになる。死者1101人、負傷者4438人、全焼20402戸。市民が営々と築いてきた家屋・文化インフラが一夜にして消え去っ た。二〇世紀の戦争犠牲者数は一億九千万人。第一次大戦までの戦死者の九割が軍人で一割が市民であった。それ以降は逆転し、べトナム戦争までの犠牲者の九割までが一般市民である。戦争は最大の人権侵害であり、環境・文化を破壊する。この意味では、戦争の廃 絶と放棄を掲げる九条は、日本人の戦争地獄から得た英知である。

人の心にこそ 平和の砦を

 日本国憲法が制定された世界史的文脈に注目するならば、私達には世界規模の安全保障体制を率先して構築してゆく義務がある。しかし、この義務を曖昧にし、最小限の軍事力ならば容認する現状を作り出し、その現状に憲法が合わないから改憲だ、という屁理屈を 主張する人たちがいる。若者にも改憲を是とする傾向も見られる。近代史の学習が行き届いていないのか、私達の戦争体験が十分に伝えきれていないのかと、戸惑う。私はエスぺランチストとして、この世界共通語で普遍性の持った憲法前文と九条を世界に広める活動 をしている。外国の市民からは「自国の憲法に取り入れたい」という意見が多数届く。政府主導でなく、国境や民族に遮られず意思疎通し交流する自律的な民際交流は、互いに偏狭的愛国心を牽制し、多文化共生と平和共存に向けた国際達帯を高めるものと思いたい。 最後にユネスコ憲章前文を記し筆を置く。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」 (呼びかけ人・江川治邦)

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【九条噺】

 過日、田辺市龍神を訪れて「地域の生活と言葉」のお話をお聞きした折に、周辺で発見されたというB29の破片に触れた。戦時中に墜落したB29爆撃機の乗員を、龍神村の人々が虐待せず人間扱いして感謝された、という話はかなり知られている。▼このヒューマニズムの歴史は、民族排他主義を超越している点で、世界平和の理想、戦争放棄の理想にとって貴重な先例であり、「和歌山から日本国憲法九条を世界に輝かせよう」という呼びかけにもカを与える。▼戦争の動機に資源や利権の獲得があることが多いが、考えてみると、他人の庭を勝手に「わが生命線」などと決め、逆に自衛しようとした人を劣等民族、裁裁国、テロリストなどと呼んで見下し敵視するのは、おかしなことではあるまいか。▼民族蔑視と敵愾心あおりが戦争への水路になってきたことは、世界の悲しい歴史であり現状だ。「美しい日本」と言う言葉がそのように使われてはいけない。近代日本が第2次大戦までアジア諸国にしてきたことを冷静に考え、どの国の人も「美しい国」を持つ権利 があると考えることだ。▼戦争は国民総動員のために自由や人権を抑圧する。私たち庶民が警戒すべきは監視社会だ。小林多喜二のように拷問で殺される恐さもさりながら、「平和」を言うだけで「アカ」「邪教」「売国奴」と村八分にされるのは恐い。加害者になりたくないものだ。▼「敵視をいましめる」ことの価値を再確認したい。(K)

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