「九条の会・わかやま」 87号を発行(2008年12月15日付)

 87号が12月15日付で発行されました。1面は、九条の会 加藤周一さん死去、守ろう9条 紀の川 市民の会が「第5回憲法フェスタ」、九条噺、2面は、「九条の会いなみ」結成2周年記念講演会、ペシャワール会中村哲氏が参院で陳述④(連載最終回) です。
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「九条の会」呼びかけ人 加藤周一さん死去

 「九条の会」呼びかけ人・加藤周一さんが12月5日、死去されました。謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。12月6日付の朝日新聞夕刊に掲載された記事をご紹介します。

「日本文学史序説」「九条の会」設立

 戦後日本を代表する知識人で、和漢洋にまたがる幅広く深い教養をもとに、政治や社会、文化を縦横に論じた評論家、加藤周一さんが、5日午後2時、東京都内の病院で死去した。89歳だった。
 東京生まれで、元々は東大医学部で血液学を専攻した医師だった。が、42年、作家の中村真一郎、福永武彦らと新しい詩の運動グループ「マチネ・ポエティク」を結成。戦後に共同出版した「1946・文学的考察」で注目される。
 58年、第2回アジア・アフリカ作家会議参加を機に医師を辞め、評論と創作活動に専念する。日本文化の雑種性を指摘した「雑種文化」や自伝「羊の歌」、共同研究「日本人の死生観」などを経て、「日本文学史序説」で80年に大佛次郎賞受賞。
 活動は国内にとどまらず、米、独、カナダなど多くの海外の大学から招かれて教壇に立ち、日本文化などを講義した。文化、芸術だけにとどまらず、常にリベラルな立場から、核問題や安保問題などの現実問題にも積極的に発言し続けた。04年には作家の大江健三郎さんらと、憲法9条を守ろうと「九条の会」を設立した。その旺盛な評論と創作活動に対し、94年、朝日賞が、00年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られた。
 朝日新聞文化面に80年から「山中人閒話(さんちゅうじんかんわ)」、84年から「夕陽妄語(せきようもうご)」を書き継ぎ、多くのファンをもった。著書は「加藤周一著作集」(全24巻)ほか多数。
 88年4月から立命館大国際関係学部の客員教授を務め、92年5月にオープンした、戦争の記録や平和運動の資料などを展示する博物館「立命館大学国際平和ミュージアム」の初代館長に就任した。

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守ろう9条 紀の川 市民の会が「第5回憲法フェスタ」開催

 12月6日、和歌山市・河北コミュニティーセンターで「守ろう9条 紀の川 市民の会」の第5回憲法フェスタが開催されました。子ども19人を含む約85人が参加しました。 午前10時から別の部屋で絵画、絵手紙、手芸などの会員の作品展示が行なわれ、さらに別部屋では「戦争あかんⅠ」「同Ⅱ」「辺野古のたたかい」が上映されました。

 メイン会場は午後1時30分に開会。オープニングとして「楠見子連れ9条の会」の面々が子どもたちとともに、歌手・野田淳子さんが「楠見子連れ9条の会」のために作曲した「最初の一歩」などを歌い、拍手・喝采を得ました。続いて、「イラクの子どもを救う会」の西谷文和さんが制作した「ジャーハダ」が上映されました。「ジャーハダ」とはアラビア語で「闘う」という意味で、生物化学兵器使用疑惑、戦争の民営化、劣化ウラン弾の被害などを告発する映像。「本物のムジャヒディーンたち」にスポットを当てた作品です。生々しい映像にショックを受ける部分もありましたが、このような悲劇に日本は絶対に手を貸してはいけない、被害を受けた人たちを支援することこそ本物の国際貢献との思いを強くする映像でした。

 各地の会からの活動報告などでは、「九条の会・きし」は池田加代子さんの『世界がもし100人の村だったら(子ども編)』を会員とお孫さんが朗読しました。「守ろう9条有功・直川の会」は2年7ヶ月続けている「路地裏宣伝活動」を、ゼッケン、のぼり、ハンドマイクを持って舞台で実演しました。「憲法署名を進める楠見の会」は、既に10回実施し、1683軒を訪問し、743筆の署名を集めた「地域署名活動」の実施内容を報告し、代表3人が感想などを述べました。
 この冬初めて雪がちらつく寒い日。また明日からがんばろうとみんなで確認し合いました。

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【九条噺】

 早乙女愛の新刊『海に沈んだ対馬丸-子どもたちの沖縄戦』(08年6月岩波書店)はいいなぁと思う。愛の父親は、自身の体験と長年の調査による詳細な記録『東京大空襲』(岩波書店)でも著名な早乙女勝元氏。愛は幼少の頃よりその父に連れられ各地の戦跡を見て育った▼『海に沈んだ対馬丸』は戦争を「被害者」の立場から見つめる確かな目と地道な調査の積み重ねがあってこその作品だと思う▼1944年8月22日夜、那覇港を出航した対馬丸はトカラ列島沖でアメリカの潜水艦に撃沈された。この船には1788名が乗船、船舶砲兵隊員・船員以外の1661名は疎開者で、その多くを学童が占めた。つまり、敗戦が色濃くなるなか、「沖縄決戦」必至とみて急きょ仕立てられた「学童疎開船」だったのだ。しかしすでに船の動向もすべて米軍に察知されており、対馬丸もあっけなく撃沈、実に1418名(うち学童775名)が死亡という惨劇に▼著者は、この時に奇跡的に生き延び、今もご存命の人たち7名(当時=学童など)を各地に訪ね歩き、当時の家族の様子や暮らしぶり、そして疎開船乗船、撃沈から救出までを丹念に聞き取り、それらをベースに全貌を描いた。この本は、子どもたちにも充分わかる文章で「戦争とは何か」を問いかけており、臨場感あふれる「まことにすぐれた戦争の語り部」だ、とも思う。(佐)

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「九条の会いなみ」結成2周年記念講演会開催

 「九条の会いなみ」は、結成2周年の記念行事として、12月6日、印南公民館で講演会を開催しました。急に寒さがやってきた、北風の強い冷える日でしたが、約40名の出席を得て、中村隆一郎氏(元紀央館高等学校長)のお話に聞き入りました。中村氏は、在職中、高校生と共に地域の空襲・戦災調査に取り組まれ、精根を傾けられたその成果を、著書『和歌山県の空襲』『常民の海と戦争』等として出版されています。今回は「戦争で失われた郷土のあったらもん」という題でお話しくださいました。「あったらもん」とは、「もったいないもの」という意味の、当地方の方言です。日課のウォーキングの途中でふと立ち寄られた小さな寺の墓地で、出会ったおばあさんが、若くして戦死した土地の青年の墓を見て、「あったらもんやのう。生きていたら、この地のために力を尽くしてくれたやろうに」と話すのを聞いて「あったらもん」という言葉を演題に使われたのでした。

 心ならずも徴兵され、外地に送られ、そこで無念の死をとげた青年。あるいは、自分から志願して陸軍士官学校や海軍兵学校に進んだ優秀な若者達が、ある者は潜水艦の航海長として、またある者は特攻兵として、あたら若い命を散らしてしまったこと等、印南や周辺の町の実在の人物を取り上げ、実際にゆかりの方々とお会いし、聞き取った事実を丁寧に話してくれました。本当に「あったらもん」で、胸が一杯になりました。前途有望な青年達を、戦争へ、戦争へと駆りたてていったもの、若者達が命を賭けて守ろうとしたもの、それは一体、何だったのか。冷静な判断力をさえもズタズタにしてしまった戦争と、それを推し進めた国家体制。
 二度とあの時代のような社会に戻ることのないように、九条を守り、生かすことの重大性について考えさせられた講演会でした。由良、美浜、みなべ等、近隣の町の九条の会の方々も参加して下さり、非常に心強くうれしく思いました。(事務局長・宮本浩子さんより)

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漫画のような 議論で憲法を変えてはいけない
    ペシャワール会・中村哲現地代表の陳述抜粋④


 新テロ法延長案を審議している参院外交防衛委員会での11月5日の中村哲氏の参考人として陳述を抜粋でご紹介しています。今回は最終回(4回目)で質疑です。質問は要旨、回答はポイントの抜粋です。

──伊藤和也さんの死は何故起きたのか?(公明)
 私はこれは外国軍の干渉、米軍及びNATO軍のアフガンへの軍事介入、あるいはパキスタンの軍事介入と無縁ではなかろうと思います。その背景について責任を持つのが日本国家の政治家の責任ではないかと私は思います。何もこれで国を責めようとは思わない、我々が無防備だったとしか言いようがない。しかし、我々は最善の力を尽くしたつもりです。その背景についてもっと突っ込んだ議論があっていいが、私、報道機関、日本の機関、日本国民すべてに、こういった認識が甘かった。
──給油は海上阻止活動向けで、空爆向けではないが?(公明)
 それは私に通じても現地の人には通じない。給油対象のほとんどであるパキスタンの軍隊が今大々的にパキスタン側から空爆しておるわけで、おっしゃられることは現地に対して説得力はないと思います。たとえ1%であろうと2%であろうと米軍に補給しているという事実、このことは現地に対してアレルギーと言えるほどの反応を起すということは確実だと申し上げておきたいと思います。
──軍事力でテロはなくならないのでは?(共産)
 軍事力ではおっしゃるとおり絶対になくなりません。なくならないどころか、ますます拡大していくであろうと。過去6年間の経過と、ソ連軍の駐留の結果を見ても、これは火を見るよりも明らかだと。肝心の米軍自体が今、対話路線に切り替えつつあるということは、恐らく撤退もそう遠いことではないのではないかと私は思います。
──外国軍駐留に対する国民感情は?(共産)
 これはカルザイ政権を含めて、100%とは言いませんけれど、ほとんどの人は反米的であると私は断言したいと思います。ただ、それを口に出すと、アルカイダに通じているだとか反米主義者だとかいう烙印を押されて過激派の味方だと言われるので、それを恐れて黙っているだけなんです。内心アフガン人のほとんどはほぼ反米的であります。これは私がいろんな人と接して、実はということから推測できることで、確信を持って申し上げたいと思います。
──国際支援なども改善すべき点があるのでは?(共産)
 現地に合った支援というのをもう少し調査してほしかった。慌てなくていいから、現地にとって本当に何が大切なのかというのをもう少しじっくり見て決めてほしかったということがあります。さらに、それを戦争で解決しようとすることによって、食えなくなった人たちが米軍の傭兵あるいは反政府勢力の傭兵として大量に流れていくという悪循環をつくってしまった。これがアフガン復興の現在の破綻の姿であろうと私は思います。
──テロをなくす要は?(社民)
 まともに人が食えるようにしてほしいと、こういうことであります。これがテロをなくす一番の要因であります。
──インド洋での給油活動は国際貢献と言えるのか?(社民)
 OEF(「不朽の自由作戦」)が戦争ではないと言っても、これは対テロ戦争、しかも報復戦争だとアメリカが自分から言っている。それに協力すること自体が、私は日本の戦後のおきてを破るものだと思います。簡単に憲法改正だのをそのためにするというのは本末転倒であり、戦争というのはそんなお花畑のようなものじゃない。現在の日本国憲法というのは、私たちの御先祖様の血と汗によってできた一つの記念塔であります。それを簡単に漫画のような議論で変えちゃいけないと、私はそう思いますね。
(おわり)

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