「九条の会・わかやま」 89号を発行(2009年1月10日付)

 89号が1月10日付で発行されました。1面は、年頭辞、澤地久枝さん朝日賞受賞インタビュー、九条噺、2面は、九条の会全国交流集会 呼びかけ人の挨拶②、NHK・ETV特集 加藤周一1968年を語る② です。
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[本文から]

09年、憲法を「守る」とともに「生かす」ことも

 今、大企業の非正規労働者の「派遣切り」「雇い止め」が大きな社会問題になっています。日比谷公園の「年越し派遣村」に駆け込んだ労働者に対して坂本総務政務官は「まじめに働く人たちか」と、許し難い発言をしています。

 澤地久枝さんは、「さしあたっては、経済不況でくらしの問題が迫っています。9条と25条を一つのものとして立ち向かっていく時だと思います」と言われました。07年の全国交流集会で故加藤周一さんは、「私たちの運動も、『守る』ことはもちろんだが、『生かす』ことも念頭に置く必要がある。権力側はいきなり改憲ではなく、むしろだんだんに憲法を空虚にして、ないのと同じ状況にしようとすると思う。それに抵抗するには、『守る』だけでなく『生かす』必要があることを訴えていかなければならない」と強調されました。

 25条は「①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めています。非正規労働者から仕事と住むところを奪い、命が危ない状況にまで追い込んだ大企業や、それを放置し責任を感じない政府は明らかに25条をないがしろにするものです。ここに至り、非正規労働者が労働組合を結成し反撃を開始しました。これは28条の「勤労者の団結権」や27条「②賃金、就業時間・・勤労条件に関する基準は、これを法律で定める」を生かす動きです。また、99条は「・・公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めています。これに従えば、田母神論文のように憲法が禁ずる集団的自衛権行使や海外での武器使用の主張などできるはずがないのです。首相自らが改憲を主張することもありえません。

 私たちは憲法の精神や条項の意味を理解し、常日頃からその実現を要求していかなければならないと思います。それが「守る」とともに「生かす」ということになるのではないでしょうか。12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定めているのですから。

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戦死者の思い 物語に残す
「九条の会」呼びかけ人・澤地久枝さん

 「九条の会」呼びかけ人・澤地久枝さんが朝日賞を受賞されました。
 朝日新聞(1/1)のインタビュー記事をご紹介します。


 正史の裏に隠れた声なき庶民の姿を照らすかたちで、戦争とともにあったこの国の近現代を問う歴史ドキュメンタリーを書き続ける。原動力は「軍国少女だった自分への屈辱感」という。「あの15年戦争を聖戦と信じ支持した。敗戦でやっと、死にたくないのに死んでいった異形の死に思いが及ぶの。恥の記憶です」

 編集者を経て、「戦争と人間」を書く五味川純平さんの資料助手に。この経験を力に『妻たちの二・二六事件』を刊行して72年、作家として立つ。のちの仕事は、いずれも綿密な調査と関係者に会う取材力が裏打ちする骨太の骨格を持つ。底を貫くのは、平和で民主的な社会を願う意志だ。

 「私の中では待遇改善を求める近衛兵の乱、明治の竹橋事件を調べた『火はわが胸中にあり』が大事。忘れられた、世の中を変えたかった男たちの痕跡を残そうとして書いたのだけど。でもどの仕事もみないとおしい」という。

 「いろんな人に会った。ミッドウェーの取材では海で死んだ米兵の息子が今度はベトナムの空で死んだ、そういう家族に会った。貧しいイタリア移民の家系でね」
 「彼らの故郷をナポリ近くの山中に訪ねました。私自身、父に連れられ旧満州に渡った移民の娘で、一族の物語を知りたかった。親子2代が戦争で死んで帰らない、こんな悲しみの連鎖は戦後の日本にはない。なぜ?」

 「九条の会」呼びかけ人の一人。改憲論議のうごめきに「今の日本はあぶない。沈黙はイエスよ。だから私はノーという」。執筆の間をぬい、護憲を訴える講演に臨む。
 3度の手術に耐えた心臓にペースメーカーをつけ、からだを運ぶ。「お医者様は『無理しないこと』って。私の答えは、もちろん『はい』。でもやらなきゃいけないことをやらずに生きても、意味ないじゃない?」


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【九条噺】

 年の瀬に井上俊夫さんの『詩集 八十六歳の戦争論』を読んだ。井上さんの詩は還暦を過ぎた頃よりすっかり様相を変え、主に自らの戦争体験を赤裸々に綴るようになった。次第に右傾化が進む状況に危機感が募り、「自分がかつて軍隊でしたことを見つめ、必死に書き残そうと思った」からだ▼「私が戦争の詩を書いているのは」という詩で、反戦平和に資するためではなく、若い人たちに体験を伝えたいためでもない、「私は誰よりも私自身のために詩を書いている」という。「父は、自分を含む貧しい若者が、なぜ軍隊に行くよう仕向けられたのか知りたかったのだ」(ご長男)とも▼20歳で徴兵され、中国では、捕虜を突き刺すように命じられたのがはじまりで、敗戦まで侵略戦争の真っ只中で過ごした。だからこそ悲惨な歴史を繰り返さないために「老骨に鞭打って書かねばならぬ。残酷で不条理な『戦争』の実相を。命ある限り」と病床でも書き続け、冒頭の詩集の完成を見ぬうちに生涯を終えた▼まるで生命を搾り出すように綴られた詩の数々は、ご本人の〝意図〟はともあれ、若い人たちに戦争の何たるかを語り継ぐたいへん立派な教材であると思う。「靖国神社」や、その歪んだ歴史観をあわせもち、改憲を企むものたちへの批判も痛烈だ。かくて、この〝教材〟に「九条の会」の広がりという〝希望〟をのせ新年を迎えた次第である。(佐)

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田母神論文の 政治的背景が大問題
  「九条の会」全国交流集会呼びかけ人の挨拶 ② 奥平康弘さん

 11月24日に開かれた九条の会第3回全国交流集会での呼びかけ人の挨拶を「九条の会ニュース」から順にご紹介しています。


 田母神論文問題ですが、これは論文に値しない、一つひとつが批判の余地のあるトピックスを断定的に撒き散らしています。その一つひとつは、他愛のないものなのに、それが懸賞論文の第一位になる、その政治的背景、雰囲気が、大きな問題としてあるに違いないと思います。ですから多極的な側面をもった政治問題になるはずであるとして、マスメディアは格好の話題にしてしまいます。いってみれば政治家やマスメディアははしゃいでいます。
 その中で麻生さんは「現役の空幕長が政府見解とは異なる見解を公開したのは極めて不適切であった」と言ってみせました。浜田防衛大臣は「チェックできなかったのはわれわれのミスである」と認めました。政府筋は「自衛隊員の監督、教育のあり方、部外への意見発表の届け出など万全を期し、問題の再発防止に努める」と約束しました。
 ただ再来年施行される改憲手続法との関係で、法改定のための国民投票の運動の際、公務員・教員の運動を規制することと結びつけて検討していくことは課題となります。(見出しは編集部)

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言葉は被占領側が占領側を圧倒した
  NHK・ETV特集「加藤周一 1968年を語る・『言葉と戦車』ふたたび」②

12月5日に亡くなった加藤周一さんを偲び、12月14日に放映されたNHK・ETV特集で語られた内容(要旨)を紹介しています。今回は2回目。


 8月20日深夜、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍が侵入。投入兵士は14万人以上、戦車7000輌に及ぶ軍事介入で、プラハの中心部を占拠した。

    すぐに世界に伝えてもらいたいと、ドイツ語で地下放送が始まった。「あとどれぐらい放送できるか分かりません。皆さんへのお願いです。全世界、特に国連事務総長と安全保障理事会に情報を伝えてください。もし、私たちがテレビでもラジオでも放送できなくなったら、オーストリアの皆さん、短くてもいいですから、チェコ語で現状について放送してください。伝えてほしいことは、我々がソ連軍を招待したのではない。向こうの都合で入ってきたということです」というものであった。

<地下放送アナウンサー(NHKテレビより)>

   結晶化(crystallize)した私の考えは「社会主義の未来がダメになった。希望を絶たれた。せっかく自由な社会主義を作ろうとし、もし成功すれば、現在の資本主義より優れた体制を、小国といえどもチェコスロバキアは作ったかもしれないという感じが一晩のうちに粉砕された。自由な社会主義というものの可能性は当分なくなった」というものであった。私は真に自由な社会主義ということに、チェコスロバキアに関心を持っていた。それがやられたということは非常に陰鬱な空気で、希望を絶たれてしまった。

 しかし、国境を越えて届く地下放送に加藤さんは言葉の力を見出す。

 武力の面では占領側が被占領側よりも比べものにならないほど強大であった。しかし、言葉の面では逆に被占領側が占領側を圧倒した。放送局の建物が占領されたにも拘らず、ほとんど占領と同時に活動し始めた秘密放送の送り出す電波は中欧の空に溢れていた。

 放送局がソ連軍に制圧された後、21日夜に市民を勇気づける地下放送が再開された。「みなさん、まだラジオを聞いていたらチェコラジオからお願いします。勝手な行動をしないでください。余計な血を流すような真似はしないでください。われわれの政府の発表があるまで待機してください」「ソ連はわれわれを踏みにじり、労働者の連帯、社会主義の可能性を絶ちました。資本主義との戦いで共産主義が守勢にまわらざるをえなくなりました。このソ連軍の侵攻は50年先まで恥辱として語られることでしょう」であった。

 ソ連の指導者が放送局の制圧に何故やっきになるのか。その理由は、ソ連の指導者は言葉に関心がなかったから戦車を用いたのではなく、戦車を用いざるを得ないほど言葉に強い関心を持っていたともいえるだろう。言葉に関心が強かったのは、ソ連の戦車がプラハの意志に反しても国境を越え得たように、チェコスロバキアの言葉がモスクワの意志に反して国境を越え得るだろうことを知っていたからである。

 ソ連の戦車に言葉で立ち向かう市民は、「反革命行為からあなた方を救うために来た」というソ連兵に対して、「あなた方は何をしに来たのですか? 誰が反革命行為を行うというのですか?」と応酬した。バーツラフ広場で衝突が起こり、言葉で抵抗する市民にソ連兵が発砲し、85人が命を落とした。

<ソ連軍に抗議するプラハ市民>

 言葉はどれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、1台の戦車さえ破壊することができない。戦車はすべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものを自ら正当化することだけはできないだろう。68年の夏、小雨に濡れたプラハ街頭で相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉であった。(つづく)

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(2009年1月10日入力)
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