「九条の会・わかやま」 89号を発行(2009年1月10日付) 89号が1月10日付で発行されました。1面は、年頭辞、澤地久枝さん朝日賞受賞インタビュー、九条噺、2面は、九条の会全国交流集会 呼びかけ人の挨拶②、NHK・ETV特集 加藤周一1968年を語る② です。 | |
09年、憲法を「守る」とともに「生かす」ことも
戦死者の思い 物語に残す ☆
正史の裏に隠れた声なき庶民の姿を照らすかたちで、戦争とともにあったこの国の近現代を問う歴史ドキュメンタリーを書き続ける。原動力は「軍国少女だった自分への屈辱感」という。「あの15年戦争を聖戦と信じ支持した。敗戦でやっと、死にたくないのに死んでいった異形の死に思いが及ぶの。恥の記憶です」 編集者を経て、「戦争と人間」を書く五味川純平さんの資料助手に。この経験を力に『妻たちの二・二六事件』を刊行して72年、作家として立つ。のちの仕事は、いずれも綿密な調査と関係者に会う取材力が裏打ちする骨太の骨格を持つ。底を貫くのは、平和で民主的な社会を願う意志だ。 「私の中では待遇改善を求める近衛兵の乱、明治の竹橋事件を調べた『火はわが胸中にあり』が大事。忘れられた、世の中を変えたかった男たちの痕跡を残そうとして書いたのだけど。でもどの仕事もみないとおしい」という。 「いろんな人に会った。ミッドウェーの取材では海で死んだ米兵の息子が今度はベトナムの空で死んだ、そういう家族に会った。貧しいイタリア移民の家系でね」 「彼らの故郷をナポリ近くの山中に訪ねました。私自身、父に連れられ旧満州に渡った移民の娘で、一族の物語を知りたかった。親子2代が戦争で死んで帰らない、こんな悲しみの連鎖は戦後の日本にはない。なぜ?」 「九条の会」呼びかけ人の一人。改憲論議のうごめきに「今の日本はあぶない。沈黙はイエスよ。だから私はノーという」。執筆の間をぬい、護憲を訴える講演に臨む。 3度の手術に耐えた心臓にペースメーカーをつけ、からだを運ぶ。「お医者様は『無理しないこと』って。私の答えは、もちろん『はい』。でもやらなきゃいけないことをやらずに生きても、意味ないじゃない?」 | |
【九条噺】
田母神論文の 政治的背景が大問題 ☆
田母神論文問題ですが、これは論文に値しない、一つひとつが批判の余地のあるトピックスを断定的に撒き散らしています。その一つひとつは、他愛のないものなのに、それが懸賞論文の第一位になる、その政治的背景、雰囲気が、大きな問題としてあるに違いないと思います。ですから多極的な側面をもった政治問題になるはずであるとして、マスメディアは格好の話題にしてしまいます。いってみれば政治家やマスメディアははしゃいでいます。 その中で麻生さんは「現役の空幕長が政府見解とは異なる見解を公開したのは極めて不適切であった」と言ってみせました。浜田防衛大臣は「チェックできなかったのはわれわれのミスである」と認めました。政府筋は「自衛隊員の監督、教育のあり方、部外への意見発表の届け出など万全を期し、問題の再発防止に努める」と約束しました。 ただ再来年施行される改憲手続法との関係で、法改定のための国民投票の運動の際、公務員・教員の運動を規制することと結びつけて検討していくことは課題となります。(見出しは編集部)
言葉は被占領側が占領側を圧倒した ☆
8月20日深夜、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍が侵入。投入兵士は14万人以上、戦車7000輌に及ぶ軍事介入で、プラハの中心部を占拠した。 すぐに世界に伝えてもらいたいと、ドイツ語で地下放送が始まった。「あとどれぐらい放送できるか分かりません。皆さんへのお願いです。全世界、特に国連事務総長と安全保障理事会に情報を伝えてください。もし、私たちがテレビでもラジオでも放送できなくなったら、オーストリアの皆さん、短くてもいいですから、チェコ語で現状について放送してください。伝えてほしいことは、我々がソ連軍を招待したのではない。向こうの都合で入ってきたということです」というものであった。 | |
<地下放送アナウンサー(NHKテレビより)>
結晶化(crystallize)した私の考えは「社会主義の未来がダメになった。希望を絶たれた。せっかく自由な社会主義を作ろうとし、もし成功すれば、現在の資本主義より優れた体制を、小国といえどもチェコスロバキアは作ったかもしれないという感じが一晩のうちに粉砕された。自由な社会主義というものの可能性は当分なくなった」というものであった。私は真に自由な社会主義ということに、チェコスロバキアに関心を持っていた。それがやられたということは非常に陰鬱な空気で、希望を絶たれてしまった。 | |
<ソ連軍に抗議するプラハ市民>
言葉はどれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、1台の戦車さえ破壊することができない。戦車はすべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものを自ら正当化することだけはできないだろう。68年の夏、小雨に濡れたプラハ街頭で相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉であった。(つづく)
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(2009年1月10日入力)
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