「九条の会・わかやま」 92号を発行(2009年2月8日付) 92号が2月8日付で発行されました。1面は、海賊対策に武器使用容認、「守ろう9条 紀の川 市民の会」第5回総会開催、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」第5回総会開催、九条噺、2面は、益川氏 覚悟の反戦 です。 | |
海賊対策に武器使用を容認
「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」第5回総会 開催
「守ろう9条 紀の川 市民の会」が第5回総会 開催 |
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権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である |
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名古屋高裁判決主文は「本件控訴を棄却する」というもので、原告は「負けたけれど勝った」、国は「勝ったのに困ったことだ」と言っている。国は「全部勝っている」から上告できない。原告は負けたけれど「勝った」ので上告しない。そこで判決は確定した。
【九条噺】
ノーベル賞受賞講演 触れた戦争体験 ☆
ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・京都産業大教授(68)は昨年12月にストックホルムで臨んだ受賞講演で自らの戦争体験に触れた。そこに込めた益川さんの思いを聞きたくて、インタビューした。 ☆
受賞講演では「自国が引き起こした無謀で悲惨な戦争」という表現で太平洋戦争に言及した。開戦前年の1940年生まれ。父は当時家具職人。5歳のとき名古屋空襲に被災した。 焼夷(しょうい)弾が自宅の瓦屋根を突き破って、地面にごろりと転がる。家財道具を積んだリヤカーに乗せられ、おやじやお袋と逃げまどう。そんな場面を断片的に覚えている。焼夷弾は不発で、近所でうちだけが焼けなかった。あとから思い返して、発火していれば死んでいたか、大やけどを負っていたと恐怖がわいた。こんな経験は子や孫に絶対させたくない。戦争体験はぼくの人生の一部であり、講演では自然と言葉が出た。 敗戦翌年に国民学校入学。校舎は旧日本軍の兵舎跡。銭湯の行き帰り、父から天体や電気の話を聞かされ、理科や数学が得意と思い込んだ。 祖父母は戦前、植民地下の朝鮮で豊かな暮らしをしていた。ぼくが高校生のころ、小学生だった妹が母に、朝鮮での暮らしぶりをうれしそうに尋ねるのをみて、「そんなの侵略じゃないか」と怒鳴ったことがあったそうだ。戦争につながるもので利益を得るのは許せないと思っていた。 58年春、名古屋大理学部に入学。日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の弟子の坂田昌一氏が教授を務める素粒子論教室で学んだ。 家業の砂糖商を継ぐことを願っていた父に、1回だけの条件で受験を許してもらった。その坂田先生は「素粒子論の研究も平和運動も同じレベルで大事だ」と語り、反核平和運動に熱心に取り組んでいた。科学そのものは中立でも、物理学の支えなしに核兵器開発ができないように、政治が悪ければ研究成果は人々を殺傷することに利用される。「科学的な成果は平和に貢献しなければならず、原水爆はあるべきでない」と熱っぽく語られた。私たち学生も全国の科学者に反核を訴える声明文や手紙を出すお手伝いをした。 67年、名古屋大理学部助手に。大学職員の妻明子さんと結婚した。学生運動全盛の時代。ベトナム反戦デモに参加したり、市民集会に講師として派遣されたりした。 とにかく戦争で殺されるのも殺す側になるのも嫌だという思いだった。ぼくのやるべき仕事は物理学や素粒子論の発展で、平和運動の先頭に立って旗振りをすることじゃない。でも研究者であると同時に一市民であり、運動の末席に身を置きたいと考えていた。 作家大江健三郎さんらが設立した「九条の会」に賛同して、05年3月、「『九条の会』のアピールを広げる科学者・研究者の会」が発足すると呼びかけ人になった。 日本を「戦争のできる国」に戻したい人たちが改憲の動きを強めているのに、ほっとけない。いろんな理由をつけて自衛隊がイラクへ派遣されたが、海外協力は自衛隊でなくてもできるはず。まだおしりに火がついている状態とは思わないが、本当に9条が危ないという政治状況になれば軸足を研究から運動の方に移す。 ノーベル賞授賞式から約1カ月後、黒人初のオバマ米大統領が誕生した。 ぼくは物理屋でいるときは悲観論者だが、人間の歴史については楽観的。人間はとんでもない過ちを犯すが、最後は理性的で100年単位で見れば進歩してきたと信じている。その原動力は、いま起きている不都合なこと、悪いことをみんなで認識しあうことだ。いまの米国がそう。黒人差別が当然とされてきた国で、黒人のオバマ大統領が誕生するなんて誰が信じただろう。能天気だと言われるかもしれないが、戦争だってあと200年くらいでなくせる。 | |
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(2009年2月8日入力)
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