「九条の会・わかやま」 98号を発行(2009年4月10日付)

 98号が4月10日付で発行されました。1面は、「きのくに9条まつり」開催、NHK「今をどう生きる・“知の巨人”加藤周一が残した言葉」②、九条噺、2面は、9条を世界へ95歳単身渡仏、、県立図書館長に副島昭一さん、県民大署名 です。
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「きのくに9条まつり」開催
平和を願って春の午後を楽しく過ごす


 5日、和歌山市・長町公園で「きのくに9条市民の会」が「第3回きのくに9条まつり」を開催しました。心配された雨も前日にあがり、桜も満開の中、多くの人が参加しました。中央舞台では、会長の挨拶・南京玉すだれ・9条ミニ講演・紙芝居・みんなで歌おう・太極拳・ヨーガ・福引と、平和の願いを込めたプログラムが進行しました。中央舞台の周囲には、「食べ物」「フリーマーケット」「子ども」「健康」「平和」のコーナーも設けられ、近所の住民の方も見学や買い物に来られていました。



 

  戦争を止めようとしなかった知識人を批判
「今をどう生きる・〝知の巨人〟加藤周一が残した言葉」②

【NHKアーカイブス】 (ゲスト)作家・澤地久枝さん、政治学者・姜尚中さん

   3月21日、NHKアーカイブスで「今をどう生きる・ 知の巨人 加藤周一が残した言葉」が放送されました。前半部分について4回に分けてご紹介しています。今回は2回目です。(後半部分は本紙88号~91号をご参照ください)

  (澤地) 加藤さんは自分の生き方はこうだと決めた、ひとつの主軸みたいなものがあると思う。若い時から物を客観的に見る、自問自答を繰り返すことで、他人との関係においても、己との向き合いも、生きる主軸というものがブレなかった、めずらしい人だと思う。容赦しない激しさも持っていた。人に対して容赦しない批判を加えることは、自分の責任が逃れ難くなるということで、己にも厳しくならざるを得ない。加藤さんは少数派であることをどこかで自覚せざるを得なかったと思う。少数派はどこからつつかれても戦えるように防備を持ち、毅然としなければならないという辛さがある。加藤さんがあれだけの仕事をしたのは、少数派を自覚し、少数派だからといって、そのことで揺らいだり、それを変えようとしない。「私はこれで行く。そのためには漫然としては自分の志は貫けない」ということが早くに分かっていた人だと思う。

20世紀の終わりに加藤さんが伝えたかったこと

(姜) 95年が戦後50年、それから5年経ってミレニアムというか、その意味があったと思う。戦後という言い方である時代を区切っていく、そういうあり方が終わるのではないか、その時に戦後が、自分たちが込めてきた時代がなし崩し的に変わっていく、おそらく加藤さんはそれをうすうす感じていた。だから、戦後ということをもう一回確かめたい、それを伝えたいと、そういう風に感じている。そういう点で加藤さんは世界的な知性と言っていいと思う。

加藤さんから戦争体験を聞いたか

(姜) 加藤さんは戦争体験をあまり語っていないが、医者として被爆後の広島に入っている。加藤さんは、戦争に何故反対するのかを、ただ単に一貫して言っておればそれでいいというのではなく、自分が発言する以上、今生きている人たちに如何に伝えるかということに、ものすごく創意工夫された人だと思う。

戦争を止めることが出来なかった知識人を批判

 太平洋戦争に勝つ見込がないことは当時の大学生にも分かっていた。戦後になって当時の知識人たちが、「何も知らされていなかった」「だまされていた」と発言したことに、加藤さんは言い知れぬ軽蔑を感じたと言う。1942年、亀井勝一郎、小林秀雄など著名な知識人が集まり「近代の超克」という座談会が開かれた。西洋近代文明の行き詰まりを日本の精神文化が乗り越えていくという主張が展開された。加藤さんは戦後この座談会を批判している。

「近代の超克」(NHKテレビより)

   あの「近代の超克」というのは、御用学者と御用文学者の集まりだ。戦争を理屈で肯定する座談会だ。「近代の超克」は第一次大戦以後、ヨーロッパの没落という考え方が強く出てきた。ヨーロッパ近代に対する批判を含んでいる。代表的にはシュペングラーの『西洋の没落』の本の中などで、沢山の議論があって、座談会に参加した人の中にはその本を読んでよく知っている人がいて、ヨーロッパ人自身が近代は下降線と言っている。だから、その代わりに新しくアジアから日本が指導者になって、近代の先の新しい文明を作るという議論だ。その議論は私を説得しなかった。その理由は簡単で、確かにヨーロッパ人は、近代は行き詰まりに達していて何とかしなければならないとは言っていた。しかし、誰一人として「我々のところでは大変困っている。日本に助けを求める」と言っている人はいない。日本の方は近代の先に出ると言っても、国内の状態を見渡すと、いろんな点で近代以前だ。憲法の中に人権は書いていない。人権どころか国民という言葉さえない。臣民は近代以前の用語。我々には、近代の中からどう日本の近代以前の名残を処理するかということが大きな課題としてあった。個人の人権を認めることの方が日本の社会の圧倒的な目的で、その先に、それではだめだ、新しい思想だと言われても、それは空理空言だと思った。

 加藤さんは一回性の体験をこの上なく大切にし、それを踏み躙る者に抵抗し続けてきた。日本人が何故あの軍国主義化の流れに抗し切れなかったのかという重い問いを自らに課してきた。

 私は徴兵を受けなかったし、空襲でも死ななかったが、戦争は私にとって大変強い印象だ。というのは友だちが死んでいるから。自分は偶然やっと生き延びたけれど、何の理由もなく友人は死んでしまった。だから、戦争に反対する。私の友だちを殺すほどの理由がそう簡単に見つからない。そういう殺しを正当化する理由を見つけることは困難だ。死んだ友だちが、もし生きていたら、今言わないだろうことを私が言ったり、言うに違いないことを私が黙っていたりするのは、私は喋ることが可能である限りまずいし、そうしない拘りがある。(つづく)

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【九条噺】

 春の日差しを浴びながら、公園で詩集を読んだ。「五月の風が 耳元でやさしく語る/ぼくはね/   かつてうまれたこともない存在だから/死ぬこともない/ただ 今を 吹いているだけ・・・そよそよと さやさやと/五月の風が耳元で/やさしく語る その一瞬の 一瞬の/とろけるような 幸せです」。山尾三省(1938~2001)の詩はやさしい。公園の風はまだ少し肌寒いけれど心はほっとあたたかくなる▼その山尾三省が胃がんでこの世を去る2ヶ月前に詠んだのが「劫火」。「南無浄瑠璃光/われら人のうちなる薬師如来/われらの 日本国憲法第九条をして/世界の すべての国々の憲法第九条に取り入れさせたまえ/人類をして武器のない/恒久平和の基盤の上に 立たしめたまえ」。この詩は、病状がさらに悪化してから書いた「子供達への遺言・妻への遺言」の中でも殆どそのまま引用され、「どこまでも強く、深く伝えずにはおれない」と山尾の思いが綴られている▼ひるがえって今、国会では〝献金騒ぎ〟の一方で、改憲のための国民投票施行に向け、関連予算のもと、全国の市町村をまきこんで、2010年施行をめざす準備作業がすすめられようとしている。投票の対象年齢など未確定を承知でやみくもにことをすすめようとするこの暴挙、山尾の遺言をかくも乱暴に反故にさせてはならぬ。(佐)

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平和の行脚
95歳 9条を世界へ


 憲法9条の心を世界に広げようと、95歳の本多立太郎(りゅうたろう)さん=和歌山県みなべ町=が6月、パリへと飛び立つ。日本兵時代の中国などでの体験を「戦争出前噺」として全国各地で語り続けてきた。「9条を持つ国が普通の国」を共通認識にしたいと、世界各国の訪問を思い立った。「10年はかかるかもしれないが、まだ90代だ。手から手への運動で大衆を突き動かしたい」と言葉に力を込める。

「まだ90代」 6月単身渡仏


和歌山の 元日本兵

 本多さんは1939年から中国などへ2度出征し、47年に抑留されたシベリアから帰国した。戦後は金融機関に勤め、定年退職後、「孫に自分の体験だけでも語り残しておかなければ」と、86年から「戦争出前噺」を始めた。大阪まで約3時間かかる紀伊半島南部に住むが、どこへでも出向き、出前は中国など海外も含めて約1300回を数える。
 上官の命令で中国人捕虜を刺殺した体験のほか、若い人が戦争を理解し易いよう、恋心を抱いた女性との出征時の別れのつらさなどを語ってきた。
 9条を世界へ、と思うようになったのは、05年ごろから数回訪れた中国やシンガポールの人々が存在をほとんど知らなかったから。「日本人は好戦的で利己的な人間だ」と言われたこともある。国内での改憲の動きにも危機感を抱き、昨年8月に自身が編集長を務める手書きの新聞「わんぱく通信」で、世界で9条手渡し運動を始めると宣言した。最初の訪問地に、昔からフランス映画であこがれがあったパリを選んだ。街頭で9条のフランス語訳のビラを手渡し、興味を持った人とはカフェで語り合いたいという。

   足腰は丈夫だが、18年前にぼうこうがんを患い、人工ぼうこうを付けている。家族は心配しているが、本人は「昔から何事も相談せずに決めてきたから」。同行を申し出る人には「組織に頼るのは嫌い。出前噺のように一人でやりたい」と断った。すると「せめてカンパで協力を」と、10日間で約60万円が寄せられたという。
 現地ではフランス語の通訳についてもらい、シャンゼリゼ通りなどでビラを配る。(毎日新聞 3月30日 大阪朝刊)

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県立図書館長に副島昭一さん

 県教委は県立図書館(和歌山市西高松1)の館長を外部登用し、副島昭一・元和歌山大学教授が1日、就任することになりました。副島さんは当会の呼びかけ人で、和歌山大学を先月退官されました。

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「県民大署名」駅前行動

第7回統一街頭署名行動が行われます
5月3日(日・憲法記念日)
午前11時から JR和歌山駅前

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(2009年4月12日入力)
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