「九条の会・わかやま」 107号を発行(2009年7月23日付)

 107号が7月23日付で発行されました。1面は、和歌山うたごえ九条の会 第3回総会&うたう会、「和歌山障害者・患者九条の会」総会と3周年の集い、「九条の会・美浜」の体験集『語り継ごう』に児玉五郎さんが(毎日新聞)、九条噺、2面は、ソマリア沖に海自2次派遣、和歌山大空襲犠牲を悼みピースウォーク、加藤周一さん追悼講演会③(澤地久枝さん) です。
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和歌山うたごえ九条の会 第3回総会&うたう会 開催

 「うたごえを憲法守る力に!」をスローガンに昨年6月に誕生した「和歌山うたごえ九条の会」は7月18日、和歌山市勤労者総合センターで「第3回総会&うたう会」を60人の参加で開催しました。
 「和歌山うたごえ九条の会」が誕生して1年になり、総会ではこの1年を振り返って、今後も機関紙を年4回発行、平和大好き、歌が大好きな仲間の入会を勧めていくことを確認しました。
 うたう会では、歌集からのリクエスト曲を中心に歌ったり、「うたごえ9条合唱団」と一緒に「熊野」を歌ったりしました。また、同時に行われた「うたごえオールスターズ」10周年お祝いミニコンサートでは「封印」などが精力的に歌われました。最後に「憲法9条五月晴れ」を全員で合唱し、「歌える自由を未来まで」を確認して、楽しい1日を終えました。

「和歌山障害者・患者九条の会」 総会と3周年の集いを開催

 「和歌山障害者・患者九条の会」は、6月28日、和歌山市ふれあいセンターで45名の出席で、総会と3周年の集いを開催しました。
 総会では昨年の取り組み、財政活動等について活発な議論がなされ、総会の後は「ねがい」の大合唱です。会場内ではコーヒーの販売も行われ、終始和やかな雰囲気で、楽しく過ごしました。
 第2部の3周年の集いでは「障がいのある人が地域で自分らしく暮らせるために~自立支援法と憲法を考える」という演題で、大谷真之氏(障害者自立支援法訴訟原告/自立生活応援センター和歌山チャレンジ代表)、長岡健太郎氏(障害者自立支援法訴訟和歌山弁護団)のお二人に講演をしていただきました。
 障害当事者である大谷さんは、高校から健常者と一緒に学ぶようになって、障害者は地域で暮らすべきと考えるようになった。食事をしたり、トイレに行くのになぜお金を払わなければならないのか、時代は60年代に戻ったみたいだと話されました。長岡弁護士は訴訟の現状報告をされ、障害者の人権について事例を挙げながらお話いただきました。講演のあと自立支援法に対する思いや生活の様子など、講師のお二人を囲んで語り合いました。「障害者・患者九条の会」は、自立支援法訴訟を応援していくことを、今年度の活動方針としていきます。

「九条の会・美浜」の戦争体験集『語り継ごう』に寄せる
海軍潜水学校に在籍・児玉五郎さんが (毎日新聞・和歌山版)


 来月の終戦の日を前に、海軍潜水学校に在籍していたことのある美浜町吉原の児玉五郎さん(86)が、軍港で空襲に遭ったときの惨状などを、同町内の戦争体験者の話をまとめた「語り継ごう─戦争体験 人々の証言」第2集に寄せた。児玉さんは「戦争は犯罪だ。憲法9条を守ることこそ自衛だ」と訴えている。 

   「語り継ごう」は、護憲や反戦活動に取り組む「九条の会・美浜」(谷口幸男代表)の発行。昨年4月と今年1月に開いた「戦争を語る会」での講演や聞き取りで集めた話など、計9話をまとめた。
 「私と戦争」と題した児玉さんの体験は、実習生として呉海軍の軍港へ手伝いに行き、遭遇した空襲。防空壕に逃げて助かったが、周りは火の海に。大勢の死傷者を、児玉さんは他の仲開たちとトラックに乗せ、野戦病院になった学校の講堂ヘピストン輸送した。
 中には、内臓が裂け、息をすると「ブーブッ」という音がして、□や鼻から血のかたまりを出していた負傷者もいた。軍医の指示を受け看護師は、助かる見込みのある者だけに注射を打っていたという。搬送中に「水、水」とうめく兵士に「しっかりせえ!」と声を掛けたが、消え入るような声で「お母さん」と言いながら、息を引き取ったという。
 「『天皇陛下万歳』とは言わなかった。それが死んでいった人たちの本当の最期だ」と、児玉さんは話している。
 「語り継ごう」にはこのほか、海軍特別少年兵としてわずか15歳で戦場へ送られ過酷な体験をした人や、特攻隊員だった兄を亡くした人の体験なども収めた。
 谷口代表は「戦争を風化させず、『戦争できる国づくり』を許してはいけない。この集録が、その一助になれば幸いです」と話している。B5判158㌻。500部製本し、資金寄付してくれた人たちなどに配布した。問い合わせは大谷眞・同会事務局長【0738・23・1272】(毎日新聞和歌山版7月18日)

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【九条噺】

 「わたしには夢がある。暴力に暴力でこたえてはいけない。愛こそがあらゆる問題を解決するカギだ。こぶしではなく言葉で正義を勝ちとるのだ」。64年にノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キング牧師の有名な言葉だ。長い間、世界中の、不正や差別に苦しみ、あるいはしいたげられてきた無数の人々の悲しみや嘆き、そして怒りの言葉につながっている▼「核兵器を使った唯一の核兵器国として、核兵器のない世界を目指して具体的な方策をとる。世界は変わることができないという声を無視しなければならない」。オバマ米大統領の演説。広島・長崎に原爆を投下した明瞭な「責任」は「道義的責任」という言葉になり、核兵器廃絶も「おそらく私が生きている間にはできないだろうが」と言った。それでも、いろいろ〝不足分〟を差し引いたとしても、この演説は画期的であり、人々に大きな希望をもたらす。広島・長崎の、そして世界中の核廃絶を求める願いや運動の積み重ねが大統領演説にもつながっているのだ▼被爆の子を描いた朗読劇に毎年取り組んできた俳優日色ともゑさん(劇団「民芸」)は、「私たちの朗読劇もそうした大きな木の枝の端っこにピュッと引っかかっているのかもしれないな、とも思える」と。さすがは俳優ならではのいい言葉。草の根の一人ひとりの声、小さな運動が絡みあい、積み重ねあって、9条を守り、揺るがぬ平和への扉が開く。(佐)

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ソマリア海賊対策に、海自が2次派遣
派遣された「あまぎり」

   政府はソマリア沖の海賊対策のため、6月に強行成立させた海賊対処法に基づく海上自衛隊の第2次派遣部隊の護衛艦「はるさめ」と「あまぎり」を7月6日、母港の横須賀基地と舞鶴基地から出港させました。新法が施行される7月24日前後に拠点となるジブチに到着し、新法に基づく、海賊対処行動を開始する予定だといいます。
 3月に派遣された1次隊とは異なり、警告に従わず、不審船が商船に接近を続けた場合、不審船への船体射撃が可能となりました。現地ではすでに昨年を上回る143件の海賊事件が発生しており、銃撃戦になる可能性もあり、不審船の撃沈や乗組員の殺傷といった事態の発生が懸念されます。また、2次隊は外国籍船もすべて護衛可能となったため、護衛隻数の増加も予想され、危険な状況の増加も懸念されます。

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和歌山大空襲の犠牲者を悼み ピースウォーク

 64年前の7月9日、和歌山大空襲で多くの尊い命が犠牲となりました。
 多くの方が亡くなった汀丁公園での慰霊祭に参加すべく、カトリック紀北ブロックでは平和旬間の集いの一環として、ピースウォークが行われ、26名の方が参加されました。ある参加者は「千羽鶴の奉納で捧げられた子どもたちの言葉『戦争することに何の意味があるのでしょうか? どうして戦争をするのでしょうか?』に対して、私たち大人がしっかりと受け止め、二度とあのような愚かな戦争の過ちを繰り返してはいけない、犠牲となった方々の思いを無駄にしてはいけない、平和な世界を築き続けなければならないなどを改めて感じました」と感想を述べておられます。

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 6月2日、加藤周一さんを追悼する講演会が開かれ、よびかけ人の井上ひさしさん、大江健三郎さん、奥平康弘さん、澤地久枝さんが講演されました。「九条の会ニュース」から順次ご紹介しています。今回は3回目で澤地久枝さんの講演の要旨です。


若い感性・思考でも、働きかければ理解される
澤地久枝 さん


 今日は一冊の本をお持ちしました。加藤さんが戦後間もなく書かれた小説『ある晴れた日に』という作品です。加藤さんはそんなにたくさん小説を書いておられないと思いますが、これは昭和25年3月に出た本です。6月25日に朝鮮戦争が始まった年です。私は、正直言いますけれども、この本を一生懸命読んで、「大人の小説で自分には縁がない」と思ったことを覚えています。亡くなられてから読み返しました。
 この小説の最後は、「ある晴れた日に戦争は来たり、ある晴れた日に戦争は去った」で終っています。昭和16年12月8日は記憶がありませんが、昭和20年の8月15日はよく晴れていたという記憶があります。この小説の主人公は病院勤務をしている医局員で、昭和20年3月10日の東京大空襲で負傷した人びとを治療しながら空襲をつぶさに見た。小説の中には特攻出撃で死んでいくパイロットとか、退役の海軍中将とか、蛇のように付き纏う憲兵も出てきます。舞台は戦地でなく、東京と多分軽井沢です。そこはドンパチの音も何も聞こえてこない、しかし戦争に対する批判を持っている人間が、どんなに孤独で、そして追い詰められているかということがつぶさに書かれています。
 朝鮮戦争が始まっている訳で、まだ20歳前の私は、戦争に対して自分はいかに生きるかを一生懸命考えていましたが、この小説の値打ちは分かりませんでした。加藤さんは「あとがき」の中で、「この小説を、戦争に傷ついた若い日本国民の全てに捧げたいと思う」と書いています。私も、たぶん傷ついていた若い日本人の一人だったのですね。
 今日は若い人もみえているけど、でも九条の会というと、実際には戦争体験がある人が、地域で一生懸命「会」を守り育てている。若い人を増やそうとしているが、「この頃の若い者はだめだ」という声もあります。だけど、いまから約60年前の澤地久枝も聞く耳をもたない人間だった。私などは追体験で勉強してきて今では絶対に戦争をしてはいけないという信念をもっている。そのように一生懸命思って、ムキになってものを言おうとしている人間と、あの人たちは何であんなふうに一生懸命やっているのだろう、ご苦労なことだと思っている若い人たちのあいだに、橋をかけなくてはダメですよね。加藤さんは、晩年ということになる時期に、下関に行って大学生たちと話をした。そうしたら話がちゃんと通じた。それで、これからは老人と若い者が、憲法9条を守る運動の中心にならなければダメだと考え、次の年は早稲田へ行って学生との交流会をおもちになった。若い感性、若い思考というのは、ゆさぶれば、分かる言葉で働きかけていけば、ああそうかときっと思うと思います。
 私たちは小田さんを失い、加藤さんを失った。私は市民運動は引き算ではいけないと思います。一人が二人になり、二人が三人になり、倍々ゲームのように足し算になっていくことが市民運動の生命だと思います。いろいろな問題がありますが、一点にしぼるとなると九条守るということになると思います。その気持ちを人から人につないで、足し算にしていくことで、小田さんや加藤さんのお気持ちを生かしていくことができると思います。(見出しは編集部)

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(2009年7月23日入力 7月27日修正)
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