終戦の思い出(1)
私は、砂山小学校、そして今、桐蔭高校になっている旧制和歌山中学校の卒業生です。自慢になりませんが、成績が悪くて4年のときに高校受験を試みて失敗、5年の卒業の年にも失敗。浪人しながらまた失敗。親にも見放され、仕方なく東京に出て、中央大学に進んだ。一人ボッチで東京に放り出されてからは、勉強するしか時間の過ごしようがない。東京では、私より出来の悪いのが沢山いることがわかった。
そのうち、勉強が楽しく、おもしろくなった。成績も上がる。研究も進む。さぁ、人生は、これからだ・・・というときに学徒動員。戦争が激しくなり、日本は敗戦に次ぐ敗戦。「お国のためだ、学生も、学問を中止して戦争に行け。学問はそれまで・・・」ということになりました。残念でした。真実に・・・。しかし、思い直し、明治神宮の外苑競技場で行われた壮行会(激励会)では、雨の降りしきる中、泥水をハネ上げ、元気一杯行進しました。そして、ペンを銃に持ち替えて、みんな戦争に行くため、軍隊に入りました。陸軍へ約11万、海軍へ約1万5千人。学徒出陣といわれました。昭和18年12月1日のことです。
私は大阪の輜重(しちょう)隊(戦場まで馬で弾薬や食糧を輸送する部隊)に入隊しました。それまで私は、馬との付き合いはなく、馬は怖い。その馬の世話をし、その馬の背中に弾薬や食糧を積んで行軍する。辛く、しんどかったです。
その後、経理係に変わりました。経理係というのは、兵隊さん(軍隊)の世話をする。1人、2人の世話ではない。500人、1000人の世話をする係です。経理係になって間もなく、訓練を受けるために、満州の新京(今の中国・東北地方の長春)にある経理学校へ転勤になりました。
そして、終戦の前の年の末、経理学校を卒業すると同時に、運よく、本土(内地)の防衛部隊に勤務するよう命じられました。防衛部隊、それは、縦穴や横穴を掘って、陣地を構築し、そこに立て籠って、上陸して攻め上ってくるアメリカ軍を迎え撃つ、そういう部隊に勤務することになりました。最初は根来に、次に、海南、野上方面で、そして、7月の20日過ぎからは、那賀郡の船戸山を中心とする貴志川方面の部隊に勤務しました。
私は、終戦の日、昭和20年8月15日を中貴志小学校で迎えました。真夏の日差しのきつい、セミのやかましい昼時でした。小学校のグラウンドに整列して天皇陛下の終戦のお言葉を、ラジオの拡声機で聞きました。(つづく)
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【九条噺】
何ともやりきれない話だ。111歳で東京都内最高齢とされてきた足立区の男性が、ミイラ化した状態で発見され、20年以上はるか以前に死亡していたこともわかった。さらに、朝日新聞(8月5日)によれば、100歳以上の高齢者で31名もの所在が判らず、生死も不明だという。テレビで仁坂吉伸和歌山県知事は「(高齢者の所在不明など)和歌山では考えられないことだ」と〝自慢気〟だったが、何のことはない、この31名の中には、112歳の女性と107歳の男性(いずれも海南市)が含まれている。この人数、まだまだ増えそうにも思われる▼ふと、竹内浩三の詩の一節が浮かんだ。「がらがらどんどんと事務と常識が流れ/故国は発展に忙しかった/ああ戦死やあはれ」(「骨のうたう」)。がらがらどんどんと流れる中で、「骨(戦死者)」ばかりでなく、明治から大正・昭和・平成へ、激動の時代を生き抜いてきた高齢者もまた、おきざりにされ、忘れられようとしているのである▼山間の過疎地もまた、かかる高齢者らと同じ運命をたどりつつあるのではないか。かつて小泉内閣が強引にすすめた「平成の大合併」により、多くの中山間地から町村役場が消えて、福祉や様々な行政サービスはいっそう疎略なものとなり、先の集中豪雨では、深刻な合併の弊害も浮き彫りになった。いつまでも流れに手をこまねいてもいられない。(佐)
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「核廃絶、見届けたい」
県被災者の会楠本熊一会長 広島原爆の日に思い
8月7日付毎日新聞和歌山版は楠本熊一さん(「九条の会・わかやま」呼びかけ人)の核廃絶への思いを報じました。ご紹介します。
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