「九条の会・わかやま」 140号を発行(2010年8月15日付)

 140号が8月15日付で発行されました。1面は、「憲法9条は世界の宝」 九条連が訴える!(紀州おどり・ぶんだら節)、月山弁護士が附属中学で平和学習 ①、九条噺、2面は、「核廃絶、見届けたい」 県被災者の会楠本熊一会長、戦争の記憶 次世代へ「九条の会・きし」が自治会と協力し資料収集 です。
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[本文から]

「憲法9条は世界の宝」 九条連が訴える!
紀州おどり・ぶんだら節


8月7日、和歌山城周辺で「第42回紀州おどり・ぶんだら節」が開催され、6年連続で今年も「九条連」が結成されて、参加しました。主催者のアナウンスでも「憲法9条は世界の宝。9条を守りましょうと訴えています」と紹介されていました。「平和」や「9条を世界に広めよう」などの幟が13本。赤や黄の「NO BASE!OKINAWA」と書かれたTシャツ姿の参加者が10人。「9条を守ろう」「沖縄に基地はいらない」と訴え、辺野古への連帯もアピールしました。







  

  
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月山弁護士が附属中学で平和学習 ①

 7月7日、月山桂弁護士(「九条の会・わかやま」呼びかけ人)が和歌山大学附属中学2年生に対して平和学習を実施されました。月山弁護士のお話の内容を4回(予定)に分けてご紹介します。

終戦の思い出(1)

 私は、砂山小学校、そして今、桐蔭高校になっている旧制和歌山中学校の卒業生です。自慢になりませんが、成績が悪くて4年のときに高校受験を試みて失敗、5年の卒業の年にも失敗。浪人しながらまた失敗。親にも見放され、仕方なく東京に出て、中央大学に進んだ。一人ボッチで東京に放り出されてからは、勉強するしか時間の過ごしようがない。東京では、私より出来の悪いのが沢山いることがわかった。
 そのうち、勉強が楽しく、おもしろくなった。成績も上がる。研究も進む。さぁ、人生は、これからだ・・・というときに学徒動員。戦争が激しくなり、日本は敗戦に次ぐ敗戦。「お国のためだ、学生も、学問を中止して戦争に行け。学問はそれまで・・・」ということになりました。残念でした。真実に・・・。しかし、思い直し、明治神宮の外苑競技場で行われた壮行会(激励会)では、雨の降りしきる中、泥水をハネ上げ、元気一杯行進しました。そして、ペンを銃に持ち替えて、みんな戦争に行くため、軍隊に入りました。陸軍へ約11万、海軍へ約1万5千人。学徒出陣といわれました。昭和18年12月1日のことです。
 私は大阪の輜重(しちょう)隊(戦場まで馬で弾薬や食糧を輸送する部隊)に入隊しました。それまで私は、馬との付き合いはなく、馬は怖い。その馬の世話をし、その馬の背中に弾薬や食糧を積んで行軍する。辛く、しんどかったです。
 その後、経理係に変わりました。経理係というのは、兵隊さん(軍隊)の世話をする。1人、2人の世話ではない。500人、1000人の世話をする係です。経理係になって間もなく、訓練を受けるために、満州の新京(今の中国・東北地方の長春)にある経理学校へ転勤になりました。
 そして、終戦の前の年の末、経理学校を卒業すると同時に、運よく、本土(内地)の防衛部隊に勤務するよう命じられました。防衛部隊、それは、縦穴や横穴を掘って、陣地を構築し、そこに立て籠って、上陸して攻め上ってくるアメリカ軍を迎え撃つ、そういう部隊に勤務することになりました。最初は根来に、次に、海南、野上方面で、そして、7月の20日過ぎからは、那賀郡の船戸山を中心とする貴志川方面の部隊に勤務しました。
 私は、終戦の日、昭和20年8月15日を中貴志小学校で迎えました。真夏の日差しのきつい、セミのやかましい昼時でした。小学校のグラウンドに整列して天皇陛下の終戦のお言葉を、ラジオの拡声機で聞きました。(つづく)

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【九条噺】

 何ともやりきれない話だ。111歳で東京都内最高齢とされてきた足立区の男性が、ミイラ化した状態で発見され、20年以上はるか以前に死亡していたこともわかった。さらに、朝日新聞(8月5日)によれば、100歳以上の高齢者で31名もの所在が判らず、生死も不明だという。テレビで仁坂吉伸和歌山県知事は「(高齢者の所在不明など)和歌山では考えられないことだ」と〝自慢気〟だったが、何のことはない、この31名の中には、112歳の女性と107歳の男性(いずれも海南市)が含まれている。この人数、まだまだ増えそうにも思われる▼ふと、竹内浩三の詩の一節が浮かんだ。「がらがらどんどんと事務と常識が流れ/故国は発展に忙しかった/ああ戦死やあはれ」(「骨のうたう」)。がらがらどんどんと流れる中で、「骨(戦死者)」ばかりでなく、明治から大正・昭和・平成へ、激動の時代を生き抜いてきた高齢者もまた、おきざりにされ、忘れられようとしているのである▼山間の過疎地もまた、かかる高齢者らと同じ運命をたどりつつあるのではないか。かつて小泉内閣が強引にすすめた「平成の大合併」により、多くの中山間地から町村役場が消えて、福祉や様々な行政サービスはいっそう疎略なものとなり、先の集中豪雨では、深刻な合併の弊害も浮き彫りになった。いつまでも流れに手をこまねいてもいられない。(佐)

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「核廃絶、見届けたい」

県被災者の会楠本熊一会長 広島原爆の日に思い  8月7日付毎日新聞和歌山版は楠本熊一さん(「九条の会・わかやま」呼びかけ人)の核廃絶への思いを報じました。ご紹介します。

 「やっと被爆者の仲間入りができた」。65年前の6日、広島市で被爆した「県原爆被災者の会」会長の楠本熊一さん(85)は今年4月、胃がんと告げられた。無数の命が奪われた広島の街で、他人を助けることもできず生き残った「負い目」にさいなまれてきた65年間。がんの発病によって、その負い目に初めて向き合えた気がする。原爆の日を、毎年訪れていた広島でなく自宅で迎えた楠本さんは、「助けたかった思いは変わらない。でも私にやれることを続けたい」と語る。
 広島文理科大(現・広島大)1年だった6日朝、爆心地から約1㌔の友人の下宿で被爆した。窓の外が真っ赤に染まった直後、建物が崩れてがれきの下敷きになった。右腕に割れたガラスが刺さり、黒い雨が降ってきた。  やけどで全身がただれた人たちが街にあふれ、水を求める人たちが川をさまよっていた。家屋の下敷きになった友人もいたが、通り過ぎることしかできなかった。「原爆は一瞬だったけど、見捨てた罪は一生です」。毎年広島を訪れるたび、〝罪〟がのしかかった。
 63年には県内の被爆者有志ら約350人と同会を結成。被爆者手帳取得の取次ぎなどに取組み、がんの発病を恐れる被爆者に寄り添った。核兵器廃絶のために学校などでの語り部活動にも力を注いだ。「動いていることで良心の呵責から逃れたかったのかもしれない」と振り返る。
 今年4月15日。医師からがんを告げられた。前日に血便が出たときに覚悟はできていた。胃の3分の2を摘出し、約1カ月後に退院。しかし食が細り、2㌔の散歩もできなくなった。会の会長を辞めようと思ったが仲間から慰留され、生き残ったつらさを語り合ってきた全国各地の仲間の存在にも背中を押され、再び前を向く気持ちになった。
 核兵器廃絶に向けた動きが活発になり始めている。楠本さんは「廃絶を見届けたいという思いは以前にも増して強い。先に亡くなっていった人たちのためにも、生きたい」と話す。

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戦争の記憶 次世代へ
「九条の会・きし」が自治会と協力し資料収集

貴志会長(右)と牧野さん

 地域に刻まれた太平洋戦争の記憶を後世に伝えようと、和歌山市の「中自治会」と「九条の会・きし」は、戦前、戦中の資料収集を始めた。空襲による当時の被害を記した地図作りを進めながら資料を集め、今年5月と7月には空襲展を開催した。地域住民が自分たちの手で戦争の記録を残す貴重な取り組みで、貴志公一自治会長は「当時はみんなが『生きよう』と必死になっていたが、今は自ら命を絶つ人が多い時代に変わってしまった。戦争を地元のこととして学び、命の尊さを次世代に伝えたい」と話している。
 08年に結成した「九条の会・きし」。地域の有志が呼びかけて貴志地区だけで約200人が所属する。今年5月、結成2年を記念し空襲展を企画し、地域に残る戦争資料の収集を始めた。しかし、当時の資料が見つからず、貴志地区の被害を記録した地図の作成に乗り出した。現在の地図をもとに各家庭を回り聞き取りを進めたが、その中で同会メンバーの一人である貴志自治会長は、高齢化が進み、亡くなったり当時の記録をなくしている人が多く、記憶の風化に強い危ぐを抱いた。
 貴志会長は4歳で終戦を迎えたが、当時の記憶は鮮明に残っている。機銃掃射から逃れ、南海電鉄のトンネルに逃げ込んだり、兵士が寺に駐屯し自宅に風呂を借りに来たこと、若い兵士が上官に殴られる姿・・・。「少し前に地元であった出来事が『歴史』として現実から切り離されている」と地図作りに力が入った。
 地図はメンバーの記憶に加え約10軒への聞き取りから、1940年代の家の並び方や、空襲の被害を受けた場所、焼けた家などを再現。その時の段階での調査成果を5月と7月の空襲展に展示した。また、呼びかけの効果で、資料も集まり始め、兵士が家族に宛てて綴った遺言書や、寄せ書きが書き込まれた日の丸の旗、焼け野原になった和歌山市の様子を写した写真などを並べた。7月の展示会には約50人が来場し、当時の様子を思い出すように資料に見入っていた。
 「九条の会・きし」の牧野ひとみ事務局長は「まず事実を知らなければ関心を持ちようがない。地図はまだ完成ではないので聞き取りを続けたい」と話す。
 元小学校教諭の貴志会長は「子どもたちや次の世代に地域の歴史を知ってほしい。次回は戦争経験者に当時の話を聞きたい」と抱負を語っている。
(「ニュース和歌山」8月7日号より )

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(2010年8月15日入力)
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