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「九条の会・わかやま」 141号を発行(2010年8月25日付)

 141号が8月25日付で発行されました。3面構成で、月山弁護士が附属中学で平和学習 A、「九条の会・わかやま」結成5周年記念〜井上ひさしさんを偲んで〜DVDを観る会、九条噺、65回目の終戦記念日 空襲の惨禍聞き・追悼、加害の実態 元兵士が証言、「今こそ真の平和を訴えたい」(澤地久枝さん)@、中村哲氏講演会日程再変更 です。

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[本文から]

月山弁護士が附属中学で平和学習 A

 7月7日、月山桂弁護士(「九条の会・わかやま」呼びかけ人)が和歌山大学附属中学2年生に対して平和学習の講師をされました。月山弁護士のお話の内容を4回(予定)に分けてご紹介しています。今回は2回目。

終戦の思い出(2)

 思い返せば、日本は、昭和12(1937)年に中国との戦争をはじめ、昭和16(1941)年からは、米、英、オランダ、フランスの連合軍を相手に、太平洋戦争に突入し、10年間も長い長い戦争を続けてきたのですが、最後は、陛下のお言葉に従って、連合軍に無条件降服。当時、日本の軍人は、海外に200万人以上も出て戦っていました。それが、みんな白旗を上げ、鉄砲、剣、その他の武器を捨て、連合軍に降参したんです。昭和19年7月7日、サイパンでは、4万余りの軍人、民間人が戦死しています。沖縄では昭和20年4、5月頃、20万人以上の人達が。そして、その他の島々でも同じでした。
 惨めな敗戦でした。内地(本土)も、東京、大阪をはじめ51の都市が焼夷弾で丸焼けにされました。和歌山市もその1つです。そして、広島、長崎には原子爆弾まで投下されました。そして、私が以前いた満州では、数十万もの軍人が旧ソ連軍の捕虜となりました。そして、冬は、零下30度、40度にもなるシベリヤに連れて行かれて強制的に労働させられることになりました。ほんとに惨めな、酷しい敗戦でした。
 天皇陛下の終戦の放送があって、3、4時間後に師団(本部)から命令が伝えられました。2つ。1つは、全ての兵隊を4、5日のうちにそれぞれの郷里に帰らせ(復員させ)て、部隊(軍隊)を解散せよ。もう1つは、武器は勿論、衣類、食糧など軍需物資を全て連合軍、占領軍に引渡せということです。そしてこれは、連合軍(占領軍最高司令官)の命令であるということでした。
 私の連隊は、小さく約1000名そこそこでしたが、この復員業務、終戦業務は、私ども経理係にとって大変な仕事でした。盆と正月がいっぺんに来たような忙しさです。  その当時、私は、上三毛の自宅から中貴志の小学校(連隊本部)へ片道1時間余かけて通勤していました。帰りは、毎日夜9〜10時位。遅いときは12時を過ぎることも度々あった。中貴志、丸栖、船戸、上三毛・・・と、御茶屋御殿山(船戸山)の裾をショートカット(近道)するように往き復りしていました。

 帰り道、船戸の上のあたりに来ますと、紀の川平野をズウッと見渡すことができました。真っ暗な和泉山脈を真向かいに、右は高野、金剛、かつらぎ、龍門山、真正面に根来、犬鳴山、更に左へ伸びて行くと、山波は、布施屋、高積山の向こうに消える。その彼方が紀の川の河口、加太方面です。北の山も南の山も真っ暗。その間に一筋、紀の川が右から左に、東から西に、あるところは広く、あるところは狭く途切れつつ、白く光って見えました。真っ暗闇に沈んだ紀の川平野。ただ星影だけが明るく美しかった。それは、終戦前から見慣れた光景でした。
 ところが、先程言ったような多忙な復員業務、終戦業務に携わっていた終戦後、2、3日目、いつもの道を歩いて帰りながら船戸辺りまで来て、ハッとさせられました。真っ暗だった紀の川平野のあちらに2つ、こちらに3つ、また向こうにもという風に、光が、灯火(ともしび)が見える。こんなこと何年振りでしようか。・・・ウーンと、思わずしゃがみ込んでしまいました。
 戦時中、夜は、アメリカの空襲を避けるため、どの家もこの家もみな電燈を消していた。1軒に1部屋くらいは電燈をつけておく部屋があったでしょうか。その1部屋の電燈も電球の上、電球の傘の上から黒い筒状の1mくらいの黒い幕(暗幕といわれます)をぶらさげていました。光が外に漏れないように・・・。垂れ下げた黒い布の下は直径1mか2m位の明るみがあった。家族は、そこで縫い物をする、勉強する、読み物をするといった情況。それも空襲警報が鳴れば、消してしまわなければなりません。
 その暗幕が終戦後2、3日経って、各家毎に外されてゆくんです。紀の川平野によみがえった光は、その光なんです。真っ暗な紀の川平野に光が、灯火(ともしび)が戻ってきたんです・・・。私は、しゃがみ込んでその光を見ながら、「そうだ。もう空襲はないんだ。長い苦しい戦争は終った。暗幕はいらん。平和が戻ってきたんだ」・・・。その感激は何とも表現できないものがありました。しゃがみ込んでいると、いろんなことが思い出され、思わず涙が出まして、この光、この平和の灯火(ともしび)、これを二度と消してはならない、と思いました。涙を振り飛ばしながら立ち上がり、上三毛、自宅へと駆け下りて行ったことです。
 これが私の終戦の思い出です。(つづく)

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── 「九条の会・わかやま」結成5周年記念 ──
〜井上ひさしさんを偲んで〜DVDを観る会

と き:2010年9月18日(土)13:30〜16:00
ところ:和歌山市勤労者総合センター 4階 大会議室(1・2)
参加費:無料
プログラム
1.井上ひさしさんの講演
  「ひとの都合では死なない」
      2008年6月21日 岐阜・じゅうろくプラザ 「九条の会」憲法セミナー
2.澤地久枝さんの講演
  「井上ひさしさんの志を受けついで」
      2010年6月19日 東京・日比谷公会堂 「九条の会」講演会
    ※ 映像は大型スクリーンに映写します

 「九条の会・わかやま」は、和歌山県内の著名な23名の方の呼びかけにより2005年9月16日に結成されました。今年は結成5周年になります。結成5周年に当り、去る4月に亡くなった井上ひさしさんを偲んで「DVDを観る会」を企画しました。是非、多数のみなさまのご来場をいただきますよう、お待ちいたしております。主催:九条の会・わかやま

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【九条噺】

 「核のない世界」をめざす流れは着実に拡がっている。それを象徴するかのように、今年の平和祈念式典(広島)には潘基文国連事務総長やアメリカのルース駐日大使らも初めて参加した。潘基文国連事務総長は挨拶で「われわれは共にグラウンド・ゼロ(爆心地)からグローバル・ゼロ(核廃絶)、大量破壊兵器のない世界をめざしている」「核廃絶がより安全な世界を実現する唯一の道。核兵器が存在する限り、われわれは核の影の下で生きることになる」と述べた。式典に参加した多くの被爆者らも「悲願への道がまた一歩前進」と喜んだという。ところが、肝心かなめ、唯一の被爆国である我が国の首相がこの流れに水をさした。菅首相は、挨拶こそ無難にこなしたが、直後の記者会見で「核抑止力は我が国にとって引き続き必要だ」と述べたのである。昨年は麻生首相が挨拶の中で「核の傘は必要」だと述べて、多くの被爆者らの怒りをかったが、その後「政権交代」を経て、菅首相になっても何ら変わるところはなかったわけだ。菅首相はこの日の挨拶の中では「非核三原則を堅持する」とも述べているのだから、「二枚舌」と言おうか、「支離滅裂」と言おうか・・・いずれにしても一国の総理としては少々恥ずかしい。これからも核廃絶の流れに棹を差す、様々な 逆風 もあるだろう。そんな時は、まさに「ヒロシマとナガサキこそが抑止力」。順調な流れを推し拡げたい。(佐)

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65回目の終戦記念日


 空襲の惨禍聞き・追悼

 市民団体「平和と憲法を守りたい市民の声」(松浦攸吉代表)は、和歌山市西汀丁の市勤労者総合センターで「8・15市民のつどい」を開き、約20人が集まった。戦中を市内で暮らした70〜80代の女性たちが空襲や学徒動員について語り、「戦争はダメ」「戦争はむごい」と訴えた。
 平井裕子さん(72)は1945年7月9日、和歌山大空襲に遭った。当時7歳。父親は出征しており、同市茶屋町の自宅から母親と弟2人と燃えさかる街の中を走った。逃げる人並みに踏みつぶされる人もいて、「離したらいかん」と話す母の手を必死で握っていたという。自分は助かったが、足が悪く、自宅に残った祖父を亡くした。焼け出され、大阪府内の親類宅に身を寄せるために乗った南海電車では、海側から背中越しに米軍の機銃掃射を受けた。弟に覆いかぶさり身を伏せて助かったが、撃たれて亡くなった乗客もいた。「助けたくても助けられなかった。むごかった」。
 「つどい」に先立ち、会員らは同市三木町堀詰の堀詰橋のたもとに立つ「天啓の宙(そら)」像前で、戦争の犠牲者に祈りをささげた。天使をモチーフにした「天啓の宙」は、和歌山大空襲の犠牲者を悼むため、94年に建立された。(朝日新聞和歌山版8月16日)

 加害の実態 元兵士が証言

 15日、海南市日方の市燦々(さんさん)公園では、日中友好協会県連合会などが「第40回日中不再戦の集い」を開き、約30人が戦争体験者の話に聞き入った。
 参加者は、園内に立つ「日中両国平和の塔」に献水した後、20歳で陸軍兵として中国へ渡った和歌山市の近藤冨造さん(90)が当時の様子を語った。
 近藤さんは、朝鮮や中国から女性を拉致して陣地に慰安所が作られたことや、軍の食料を補給するために近くの住民に鶏や卵などを強制的に持って来させたことなどを説明。「限りない苦痛を与えてしまった。戦争に加担した一人として、反省しなければならない」と声を震わせた。最後に、「たくさんのアジア人が犠牲になり、平和憲法が作られた。そのことを一人ひとりが自覚せねばなりません」と訴えた。
 近藤さんの話を聞いた海南市木津、主婦中井保世さん(79)は「私も15歳で満州(現中国東北部)へ渡りました。改めて戦争の悲しみや怒りがこみ上げてきました」と話していた。(読売新聞和歌山版8月16日)

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「今こそ真の平和を訴えたい」@

8月10日、NHK「ラジオ深夜便」で澤地久枝さん(九条の会呼びかけ人)が「今こそ真の平和を訴えたい」と題して話されました。その要旨を3回に分けてご紹介します。

澤地久枝さん

ペシャワール会の中村哲さんへのインタビューは

 全部で8時間もない限られた時間で私が伺ったことを中心にして本をまとめるのは、私に今出来るアフガンでのボランティアだと思いたってやった仕事です。中村先生のお手伝いをしようと思ったのは、戦争や平和と言っても言葉だけが頭を通り過ぎていくかもしれないけれど、中村先生は武器はいらない、丸腰でいくのが一番いい、軍事力や武器は有害無益だということを、国会の証言でも言われたし、パキスタンとアフガニスタンの現地に医師として入って、26年になり、今や水路建設の重機の運転に重点があるという生活の中で、平和というものはどういうものかということを証しながら、ひとりの日本人として現地に留まっておられる。そのことを知っていただくべくお手伝いしたいと思い、今の体力で出来ることとしてさせてもらったのです。

『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』この題名に込められた思いは

 先生の気持を支えているのはそういう言葉だと、最後にまとめのように言われました。先生ご自身はそれを自分の心の中にしっかりと持っておられると思います。北九州出身だから川筋といって、人が困っていたら助けなければ男じゃなかろうといった気風があり、たぶん中村先生もそれを引いておられると思います。

人間が力を合わせれば出来ることがあると感じる

 現在水路は25.5q、かかったお金は16億円で、そのお金は先生の仕事を支えようというペシャワール会の会費と善意の寄付です。日本人は遠いアフガンのために、しかも、平和は武器でないもので維持されていくということの証のようにやっている仕事に、それだけのお金とボランティア活動をした日本人がいるということを私たちは誇りにしていいと思います。中村先生は自分の人生と命を懸けて平和というものは武器では得られないということを語っておられる。戦争は悪だということは理屈を言わなくても中村先生を見ているとよく分ります。長い年月と16億円は個人のレベルで考えると大変なものだが、それを出したのは我々日本人だということに、私たちは安心と誇りを持ちたいと思います。

現実の社会では紛争はなかなかなくならない

 第2次世界大戦後、戦火が地上から消えた日は1日もない。いつも軍事力、武器が介在し、小さな傷で済んだものを大きくすることの繰り返しでした。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争もあったし、いろんなところで国際紛争があって、人間は戦争をしなければ生きられない生き物だと実際に思っている人もいるようですが、でもそう言ってしまったら何もならないので、そうではないということを、特に日本人はよく考えて、世界に向って、私たちはこういう歴史をたどり、今はこういう憲法を持ち、平和以外には答えはないということを発信する責任と権利があると思います。

戦争の取材をされる出発点は

 私は満州で子ども時代を送りました。8月15日から1年間、難民生活をしましたが、1年間で大勢の人が学校などの収容所で命を落としました。開拓団には多くの子どもが送り込まれていました。ソ連が開戦したときに日本の軍隊は引いてしまい、多くの子どもが収容所に逃れてきましたが、発疹チフスや栄養失調で死んでしまいました。満蒙開拓の父と言われた加藤完治は、あの子たちをあんな目に遭わせた責任をどう取るのかと、私は思いました。その後加藤完治は自決もせず、また教育者として校長か何かになって、責任を問われることなく生き延びました。このことが私の心の中に核みたいな、芯みたいなものとして残ったと思います。国とは何と無責任に無慈悲に民を切り捨ててしまうのかという気持ちでした。私はあの少年たちに非常に強い親近感と痛ましさを覚え、そのことが私の戦後の生きる姿勢の底に残ったと思います。

戦争を取材されているが、いわゆる戦記とは違う記録ですね

 私はただの戦記では飽き足りない。何故男たちが戦争を起こし、戦場へ行き、どんな死に方をし、そして男たちが死んだ後に残された妻や母親や兄弟、子どもたちはどのように生きたのかということを、全部丸ごと書かなければ戦記にはならないじゃないかという不満を若いころから持っていたと思います。それが仕事の姿勢を決めたと思います。

ミッドウェー海戦ではどれぐらい年月、どれぐらい人数を取材したのか

 2000人ぐらい取材したと思います。最終的には12年間かかりました。私は欲張って残された家族の歴史も書かなければ戦争が書かれたことにならないと思ったけれど、同時にそれを日本だけに限定していては分らないことがある。日本では個人というものが本当に認められない長い歴史があったけれど、アメリカの戦死者はどうなのか、残された家族はどうなのかを比べてみようと思いました。そうするともっと日本の問題が見えてくると思って、出来る限り丹念に調べて、概数でしか把握されていなかった戦死者は、日本は3057人、アメリカは362人で、合わせて3419人が亡くなっているのですね。
 私は、最初は有名な戦闘だから戦死者の数ははっきり分っているだろうと、戦死した人一人一人とその家族の物語を書こうとして始めたけれど、数の確認に半分以上の費用とエネルギーを割くことになりました。(つづく)

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中村哲氏講演会日程再変更

「中村哲氏講演会」はパキスタン大洪水のため次の日程に再変更となりました。
日時:10月29日(金)18:30〜
会場:和歌山市民会館 小ホール

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(2010年8月25日入力)
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