当時、あなたたちの年頃の子は
昭和18年、19年、20年と戦争が続いていくうちに、お米はなくなり麦に、麦もなくなり芋類に、それも量はだんだん少なくなる。好き嫌いなど言っておれない。国民は、食べられるものは何でも食べるようになりました。イナゴ、ふすま(お米とぬかの間くらい)、木の実・・。「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」といって我慢した。また昭和20年3月には、1年間の授業停止が法律で決められました。そして、14歳以上は学徒動員。工場へ働きに行ったり、あるいは陣地構築の手伝いにも行った。日の丸の鉢巻をまいて。また、体育の時間には、女子生徒は竹槍の練習がありました。そして、動員されて工場で働いている最中に、飛行機から爆弾を落とされたり、機関銃で撃たれたりして亡くなる生徒もありました。命がけで戦うのは、兵隊さんだけではない、君たちのような年齢の生徒も、みんな戦争に参加させられたのです。
和歌山空襲の思い出
私は、海南中学の教室で兵隊たちと一緒に寝ていました。夜中の12時頃ラジオを聞いていた不寝番の兵隊から「今、和歌山が空襲でやられているそうです」と起こされました。和歌山市には、食糧倉庫を一棟残していたのと、実家が砂山にあったので気になって、自転車で飛び出しました。7月9日夜11時30分過頃から翌午前1時30分過まで、テニヤンから飛んで来たアメリカのB29爆撃機100機余りが和歌山市の上空3000mか4000mを旋回しながら、焼夷弾を落とし、市街地を焼き尽くしました。被害者は、死者1500名位、負傷者約4500名位と言われています。
私は、その日、3回海南中学を出て和歌山市を視察しました。今日はその3回目のお話をします。1、2回は、自転車だったが、3回目は馬で。もう、その頃は、夜が明けて明るかった。空襲の被害状況の視察ということで、私が普段使っていた乗馬で。自転車と違って速い。時間ははっきりしないが、もう夜は明けていた。毛見のトンネル、紀三井寺、和歌浦、堀止から小松原通り、日赤前、電車道を北に向った。その辺りに来ると和歌山市内は焼野原。大体、日赤病院の南側の線と寺町の線を東西に延長する線から北側は、ほぼ全焼していました。そして、(西)汀丁、東急インを過ぎて、経済センターのところで電車道は、お濠の北側を公園前の方、東に曲がりますが、あの付近まで来て、馬は止まって動かなくなった。小刻みに地団駄を踏むだけで。ハッと気付くと、前方に人の焼死体が6、7体転がるように電車道に横たわっている。みな防空頭巾をかぶり、黒い上衣、女の人はモンペ(着物のズボン)、肩からズダ袋(空襲袋)を掛けて。男の人も、女の人もいました。半ば焼け焦げたように、くすんで。
そして、多くは、西から東へ向っているような恰好で倒れていました。後でわかったことですが、お濠に飛び込むため、電車道を横切ろうとして走るうち、燃えついた衣類の熱さに苦しみもがきながら力つきて倒れた人たちと思われます。これも後でわかったことですが、西の方、今、戦災罹災者供養塔の建っている汀丁公園には何百(7、800)という屍体が。また東の方、お濠の中にも凄い数の屍体が積み重なっていたと伝えられています。馬は小刻みに足踏みして、私に動くように促しますし、それかといって、屍体をまたいで本町方面に進む気になれず、その上、馬上から見れば、それ以上、進まなくても和歌山市の中心部は、崩れ落ちた4階建の丸正百貨店、もと倉庫と思われる崩れ残った赤レンガ、それだけを残し、完全に燃えつくして、紀の川の土手と思われる辺りまで一面の焼野が原、全部見渡せました。私は馬の首を返して、焼け落ちて見えなくなったお城の辺りに薄い煙りが立っているのを見上げながら海南中学へ引き返しました。(つづく)
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「基盤的防衛力」の見直し提言
新安保懇が報告書提出
菅首相の諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」(新安保懇)は8月27日、将来の安全保障に関する報告書を首相に提出しました。
報告書は、平和憲法に基づき、戦後の日本政府が実施してきた「専守防衛政策」「武器禁輸政策」「集団的自衛権の行使禁止」などの政策は、「日本自身の選択によって変えることができる」とし、これらの政策の転換を提言するとともに、憲法に基づく自衛隊と軍事活動に関わる制約として「必要最小限度の防衛力を保有する」という「限定的な侵略を拒否する役割に特化した『基盤的防衛力』構想」からの脱却を提言しています。「日米同盟関係は・・・広く地域と世界の平和と安定の柱となっている。今まで以上に主体的に、日本の安全と世界の平和のために取り組むことが重要」と、アメリカの世界戦略に一層協力する日米同盟強化論を提言。そして「自衛権行使に関する従来の政府の憲法解釈との関わりがある問題も、日米同盟にとって深刻な打撃にならないよう・・・憲法論・法律論からスタートするのではなく、政府の政治的意思が決定的に重要」と、最高法規たる憲法を無視し政府決定を最上位に置くことも提言しています。
このほか、報告書は「非核3原則」は「一方的に米国の手を縛ることだけを事前に原則として決めておくことは、必ずしも賢明でない」と見直しを提言。「武器輸出3原則の下での武器禁輸政策は見直すことが必要」。「PKO参加5原則は国際平和協力の実態(武器使用基準等)に合致するよう修正すべき」。「恒久法を持つことが極めて重要」なども提言しています。
政府は報告書を踏まえ、年末に新たな「防衛計画の大綱」をまとめるとのことですが、報告書の表題にあるように「平和創造国家を目指す」というならば、このような軍事力の強化ではなく、憲法9条を生かした平和貢献の道こそ追求しなければならないのではないでしょうか。
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【九条噺】
「たとへば私が何も不都合を働かないのに、単に政府に気に入らないからと云って、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたら何(ど)んなものでせう。警視総監に夫丈(それだけ)の権力はあるかもしれないが、徳義はさういふ権力の使用を許さないのであります」▼夏目漱石の講演(1914年11月)の一節である。水川隆夫氏(元京都女子大学文学部教授)によれば、警視庁の巡査たちが幸徳秋水の家を取り巻いて監視している状況を念頭において語ったものとされる。漱石は「大逆事件(1910年)」について、国家権力が幸徳秋水ら社会主義者の「個人の自由」を抑圧したもので、「権力の濫用」だとして強く批判した▼この「大逆事件」の検挙者は全国で数百名あり、そのうち南紀の犠牲者は6名(死刑2名、無期懲役4名)だった。死刑に処せられた成石平四郎(本宮町請川)が逮捕前後の様子について述べている。「私も三日の朝寝込みへ踏み込まれスグ新宮へ連れて行かれました。何んの嫌疑か薩張りわかりません。私は人相が好くないから人殺しの嫌疑かしらんと思ひました。新宮署へ着いてバクハツ事件と聴きヤレヤレひどい眼に遭ふものだと思ひました」(明治43年6月18日「牟婁新聞」に通信)▼「侵略国家」へと歩をすすめるにあたり、「朝鮮併合」に併せて、足元から〝自由・平等、反戦の声〟を乱暴に圧殺しようとしたのである・・・それから100年が経過した。(佐)
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「今こそ真の平和を訴えたい」②
8月10日、NHK「ラジオ深夜便」で澤地久枝さん(九条の会呼びかけ人)が「今こそ真の平和を訴えたい」と題して話されました。要旨を3回に分けてご紹介しています。今回は2回目。
澤地久枝さん
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