渡辺治さん講演 ②
菅政権は出発の当初から鳩山氏がゴチャゴチャにしてしまった政治を保守政党の枠組み、構造改革、日米軍事同盟にもう一度戻す、財界・アメリカを安心させる、そういう政権として、明らかに「右」からの力に押されて登場した。07年のマニフェストでは福祉の問題や、構造改革はやめることが並んでいたが、菅政権のマニフェストではそれが一切なくなり、今まで言わなかった3つのことが書かれている。1つは「日米同盟の深化」、日米軍事同盟の強化を初めて言い、自民党と同じことを書いた。要するに「オバマさんごめんなさい」ということだ。2つ目は、今までは評判が悪くなるので書かなかった消費税を上げるということをはっきり書いた。3つ目は法人税率引き下げを書いた。菅政権は構造改革の政治に戻すことをはっきり約束したことになる。構造改革とは、ひとことで言うと「大企業の競争力拡大のために、既存制度を変える」ということ。競争力とは「大企業が大儲けし、儲けの一部を価格に転嫁して安くすること」だ。そのための2つの柱がある。1つは大企業の労働者の賃金を下げる、リストラをやり正規従業員を非正規に変える、規制緩和をやり労働条件を切り下げる改革をやる。2つ目は法人税を下げること。これは黙っていても大きな金が入ってくる。そのためには、財政を拡大しないこと。財政を拡大すると所得税と法人税で払わなければならず、法人税が下げられない。財政を削減するために、一番大きい社会保障、その中で一番の医療、さらにその中で一番の高齢者医療、だから後期高齢者医療制度をやった。もう1つ税金がかかる公共事業投資をリストラする。こういう形で法人税を安くする。とは言っても運動もあり簡単にはできない。だから法人税を安くする代わりに他の税金を取ればいいことになり、これが消費税だ。構造改革には必ず消費税と社会保障のリストラ、労働者のリストラが出てくる。「消費税増税は財政再建のため」は真っ赤なウソ。財政再建で税金を下げることはあり得ない。
菅氏が意気揚々と出てきたが、参院選で大敗北した。参院選の結果は何をもたらしたのか。3つの特徴があった。1つは民主党が大敗北をした。大都市でも地方でも大きく負けたが、地方では自民党がどんどん下降し昨年の8月に民主党に初めて敗北したが、構造改革をやめてくれると思った民主党がやっぱりだめで、今年はまた逆転した。しかし、自民党は21勝8敗で勝ったが、前進したところはない。大都市では、エリートサラリーマンは民主党に構造改革をやって、自分たちの給料を上げるために、法人税を下げてもらいたいと思っているので、03年から民主党は勝っていた。今回東京で民主党は9ポイントも下がったが、自民党も下がった。菅首相が「消費税」でふらついたので、大都市はみんなの党に行き、地方でも大都市でも民主党は大きく後退した。2つ目は、自民党も増えなかった。自民党と民主党を合わせると55%となり、15ポイントも減った。ところが社民党+共産党では10%を割ってしまった。一体どこへ消えたのか、新党に行った。保守全体では75.89%で、1ポイントも変わっていない。3つ目は共産党や社民党は大きく後退した。何故後退したのか、2つの理由がある。1つは小選挙区制の害悪がはっきりと出た。入れても議席に結びつかない。もし、比例代表だけだったら、今の得票率で共産党は32議席、社民党は15議席が取れる。それなら、共産党、社民党に入れる人も増えるはず。2つ目に、この1年の間に国民がいろんなことを見つめて考えるようになった。「福祉の財源がないから消費税を上げる」というと国民はそうかなと考える。消費税増税は昨年は6割が反対だったが、今年8月には6割の人が仕方がないと言っている。消費税を上げないでも、福祉を増大しても現実的に財政は大丈夫、再建できる。日米同盟を解消しても日本の安全は守れるということについての確信を国民が持つことができなかった。みんなの党は消費税増税の前に公務員をリストラするというとんでもない方針だが、それでも対案を出しているというふうに思った人がいる。正しいけれど対案を具体的に示してくれないと本当に安心できない、これが新党に止まった大きな原因だ。(つづく)
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【九条噺】
茨木のり子の詩「りゅうりぇんれんの物語」はずいぶん長い。何しろ、500行をはるかに超える詩で、こんな長い詩は他に知らない。それでも、読み始めるとたちまちひきこまれ、その長さをまるで感じさせないのだからこの詩人はすごいと思う▼この詩は、かつての日本軍による中国人強制連行をテーマとしている。劉連仁という一人の中国人(農民)が知人宅に向う途中、突如日本軍に攫(さら)われて、同様に連行された同胞(総勢800人)とともに青島から貨物船の底に叩き込まれて門司へ、さらにそこから北海道の鉱山へと運ばれた。過酷な労働にたえきれずに逃亡者も続出したが、殆どは見つかり処刑された。しかし、劉連仁だけは北海道の山野で逃避行を続け、その発見には実に13年余の歳月を要したのである。勿論、終戦も知らなかった▼そして詩は次のようにうたう。「昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた/罪もない 兵士でもない 百姓を/こんなひどい目にあわせた/『華人労務者移入方針』/かつてこの案を練った商工大臣が/今は総理大臣となっている不思議な首都へ」と▼その「移入方針」は3万人の目標を定めたが、「調査報告書」(43・4~45・5)でその「実績」は38935人と書く。劉連仁は幸いにも帰国し妻子とも再会できたが、986人中556人もが病死または殺害された秋田花岡鉱山のような例もある。「九条こそこの悲しみを繰り返さないもっとも確かな保障」と、また肝に銘じるのである。(佐)
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故・本多さんたたえ遺族に平和賞贈呈
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