「九条の会・わかやま」 165号を発行(2011年6月2日付)

 165号が6月2日付で発行されました。1面は、5月の風に We Love 憲法 前宜野湾市長・伊波洋一氏が講演、非常事態と憲法 浦部法穂氏、【九条噺】、2面は、井上ひさしさん没後1年・・・「求められる言葉」への洞察  です。
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[本文から]

5月の風に We Love 憲法

米軍は私たちを守っていない
前宜野湾市長・伊波洋一氏が講演


(講演する伊波氏)

 5月21日、プラザホープ(和歌山市)で「憲法九条を守るわかやま県民の会」が「5・21県民のつどい」を開催し、前宜野湾市長・伊波洋一氏が「沖縄県民の願い・憲法9条を持つ国として」と題して講演をされました。


   (うたごえ九条の会のオープニング)

 オープニングで、和歌山うたごえ九条の会が「憲法九条五月晴れ」「五月の風に」などの合唱を披露したあと、県民の会代表の武内正次氏が、大震災と原発事故で政治に求められているのは被災者の生活再建と復興に向けてあらゆる手立てを尽くすことなのに、民主党は5月18日の参院で自・公などと憲法審査会規程を議決した。国民が求めていない9条改憲に道を開く規程を議決したことに厳しく抗議したいと挨拶しました。


(武内代表の挨拶)

 伊波氏は講演で、日本国民に真実を知らせず、米軍再編が進められている沖縄の実態を、レジメやスライドを使って次のように語られました。
 沖縄の米軍基地は日米安保で造られたのではなく、沖縄戦の最中に造られ、加えて50年代には「銃剣とブルドーザー」でと言われる新たな基地建設があった。それが75年5月の施政権返還でそのまま日米安保上の提供施設に衣替えした。自民党政政府は、沖縄を犠牲にしながら今日まで日米安保が大事なものという立場を貫こうとしている。
 沖縄の海兵隊をグアムに移し、日本政府が7千億円を支出することを日米で合意しているが、費用や人数を水増しし、8千名移すと言いながら、実際は1千名しか移さないことが暴露されている。これが米軍再編で、「日米同盟の深化」だ。だから辺野古は普天間の代替ではなく、米軍再編の新しい出撃基地だ。これらの真実が国民に語られていないことが一番の問題だ。
 安全保障に関する世論では、日米同盟基軸論は19%にすぎない。国民は決して日米同盟深化を支持していない。何の議論もないまま、いろんなことが着々と進んでいる今の日本の有り様はおかしいと思う。
 米国では考えられない普天間の基地被害は、普天間が法的には飛行場ではなく提供施設であり、航空法上の安全基準はなく、米軍が安全を無視して飛行場として運用しているに過ぎないという実態から起っている。
 米軍は誰から誰を守っているのか。私たちが守られているのではない。周辺国から見れば日本は過去の侵略から脅威になる可能性はあるが、日本にはそもそも脅威がない。日米安保があるから基地提供は当り前とされるが、本当にそうかということをしっかり考え、そうでない道を目指す必要がある。
 と語られ、質疑応答では次のようなやりとりがありました。

①なぜ日本政府は沖縄に基地を置きたがるのか?
●海兵隊は米国で評価が下がっているのに、日本政府は抑止力として過大評価する。日本は米国の核抑止力に依存しており、引き換えに米軍基地を置くべきだという考え方をしている。
②沖縄知事選惜敗の原因? 当選していたら現知事との違い?
●民主党の戦線離脱が大きい。自・公による医師会など業界動員も効いた。私の「国外移設」と相手の「県外移設」の区別が分り難かった面もある。
●私なら県民の声を聞き、日本政府、米国に伝える。今の知事は政府を通して米国に要望するやり方だけ。
③何故沖縄人口が増えている?
●本土より遅れて景気が良くなっており25年頃まで続きそう。アジアの流通の中継地になっており、企業進出で雇用も多い。若い人が沖縄が好きで戻ってきている。
 最後に、「基地が返れば沖縄経済はもっと発展する。基地が発展を阻害している。平和の観点とともにこの点も押えたい。そして平和を脅かす『日米同盟深化』に走らず、憲法9条の立場で平和な日本を目指してがんばろう」と訴えられました。

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非常事態と憲法
 浦部法穂氏


 憲法に「非常事態条項」を盛り込むことが画策されています。浦部法穂氏(神戸大学名誉教授)が法学館憲法研究所HPに「非常事態と憲法」を書かれていますので、その要約をご紹介します。

 東日本大震災で、非常事態に対応する仕組みの不備が震災や原発事故への対処を不十分なものにしている大きな要因だとして、非常・緊急事態に素早く対応できるように憲法を改正する必要があるという動きが見受けられる。震災や原発事故を「憲法改正」の口実にする「火事場泥棒」的発想で、数々の「想定外」に有効な対策を迅速に打ち出せない政府の対応ぶりをみていると、「非常時の緊急措置や私権制限を認めていない憲法のせいだ。だから憲法改正が必要だ」という議論も、もっともらしく聞こえるのかもしれない。
 憲法は、国家権力の根拠となると同時にその発動・行使を制限し、国民の権利を保障するための法である。だから、権力者が独断的に行動することはできず、国民の権利を奪ったり合理的理由なく制限したりすることはできない。国民の権利を制限するには、制限の必要性・合理性を明示し、憲法の定める手続きに則って行うことが必要となる。しかし、大規模な自然災害などには、そんなまどろっこしい手続きを踏んでいたのでは間に合わないと、憲法に拘束されない権力行使や法律にもとづかない権利制限も認めるべきだ、とする議論は、憲法学・法律学の世界でも、ないわけではない。いわゆる「国家緊急権」の議論である。
 「国家緊急権」とは、国家の存立自体が脅かされるような非常・緊急事態が発生し、通常の方法ではそれを乗り切れないときに、一時的に憲法を停止して超憲法的な緊急措置をとる国家の権能だとされる。権力者に権限を集中させることを意図したものであるが、国家の存立自体の危機なのだからその国家の基本法たる憲法そのものの危機ということができるので、「国家緊急権」は憲法体制の崩壊を避けるために憲法を停止するものであって「憲法保障」のための手段だともいわれる。しかし、この「国家緊急権」を文字どおり「超憲法的」に、憲法に規定されていなくても非常・緊急時には当然認められるものだとするのは、立憲主義の否定と大差ないものとなる。だから、例えばフランス憲法のように非常時の大統領への権限集中を憲法上明文で定めているような場合にのみ、その限度で認められるものと考えるべきこととなる。日本国憲法には、非常・緊急事態における措置を定めた規定はない。「だから、震災や原発対応がもたついているのだ。憲法改正しかない」というのが、「それみたことか」式の改憲派の議論なのである。
 同じようなことは、16年前の阪神・淡路大震災の直後にも盛んに言われた。その時私は言ったが、震災への対応がもたついているのは、政治家や官僚たちの想像力と責任感の欠如のためであって、憲法のせいではない。しかし、憲法や人権というものを毛嫌いする人々は、事あるごとに、憲法の拘束をなくし人権を制限できるようにしようと、何でも憲法のせいにしたがるのである。もっともらしく聞こえたとしても、それは真実ではない。彼らの真意は、思うように権力を振える憲法にしたい、ということでしかないのである。

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【九条噺】

 福島で国語の教師をしている詩人の和合亮一が、「詩の礫」と題して、ツイッターで毎日短いことばを発信している。これらをつなげていけば長詩となるが、日々のそれぞれも優れた短詩だと思う。例えば、震災の幾日かあと、[放射能が降っています。静かな静かな夜です]と綴られ、翌日は[しぃーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら地の下を駆け抜けていく]と続く・・・。そして、その後の何日分かを繋げると、震災の恐怖の全貌が浮き上がる▼先日、東電は、原子炉の1号機~3号機で核燃料の大半が溶融し落下していたと認めた。それも原子炉の緊急停止の数日後に生じたメルトダウンを2カ月以上過ぎてからであり、首相補佐官も例により「見通しの甘さを反省している」と陳謝した。原発問題は時が過ぎるにつれますます深刻の度を増しているが、それにしてもこれほど酷い会社とは・・・。利益最優先の組織の欺瞞の「最悪例」の姿をここにみる。この会社におスミ付きを与え、まるでその広報担当をつとめてきたかのような国の原子力安全委員会。そして、この期に及んでもまだ情報隠しに躍起の東電に断固たる姿勢も示せない政府のナント頼りがいのないことよ▼まだ安心できる原発の技術力には到達していないのだという厳然たる事実を直視して、原発をゼロにする、期限をきったプログラムの推進と再生可能なエネルギーの開発・普及に邁進するよう願いたい。放射能の降る夜など迎えたくはない。(佐)

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井上ひさしさん没後1年・・・「求められる言葉」への洞察

 いま、どんな言葉が求められているのか――。3月11日以降、そう考えるたびに、東北で生まれ育ち、東北が舞台の作品を生み出してきたあの人の顔が頭に浮かぶ。存命だったら、為政者の言葉に何を思い、被災者にどんな言葉をかけただろう? 井上ひさしさんが亡くなり、この4月で1年となった。
 命日の9日に開かれた「憲法のつどい2011鎌倉」。経済評論家の内橋克人さんは壇上からこう語りかけた。「『がんばれ日本』『日本の力を信じている』と言いますが、井上さんはそういう言葉には心を寄せなかったでしょう。大義を振りかざすというのが、もっともお嫌いでしたから」
 正しいと皆が何となく信じているもの。心のどこかでおかしいと感じつつ、なかなか口にできないもの。それらに対しても発言してきたのが井上さんだった。その思いがにじみ出る未完の小説が今月、相次いで刊行された。『グロウブ号の冒険』(岩波書店)と『黄金(きん)の騎士団』(講談社)だ。
 ともに1980年代後半に書かれ、『グロウブ号の冒険』は、カリブ海が舞台の宝探しの物語。相撲の新弟子を探しに出た男の船が難破、彼が流された小さな島にはお金が存在せず、保存食を作ること、つまり貯蓄も禁止されていた……。一方『黄金の騎士団』では孤児たちが、ある切実で大きな夢を実現するために、思いも寄らぬ方法で世の拝金主義と命がけで戦う。
 2作を書いたのがバブルのまっただ中だったというのが、井上さんらしい。「金が正義」の時代に、真の幸せとは何か、違う者同士が思いやり、共に暮らせる場所は作れないか、と問いかけた。『ひょっこりひょうたん島』『吉里吉里人』から連なる「ユートピア探し」でもあったのだろう。
 3月に出た『日本語教室』(新潮新書)では、井上さんの言葉への思いに触れることができる。たとえばこんな一文から。〈言葉は道具ではないのです(略)精神そのものである〉
 作家の大江健三郎さんは「憲法のつどい」で、広島の原爆で死別した父娘を描いた井上さんの芝居『父と暮せば』のラストシーンを朗読した。自分だけが生き残ったことを「申し訳ない」と思う娘に、これからも生きろ、と父の霊が説く場面。
 〈おまいはわしによって生かされとる。(略)あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ〉
 朗読の後、大江さんは言った。「井上さんは広島の文献を数知れず集め、その上で一番やさしい、誰の耳にも聞き取れるようなエッセンスをくみ取り、積み立て、言葉にしたんです」
 誰も井上ひさしのようにはなれない。が、懸命に想像することはできるはずだ。いま何を言い、どう行動すべきかと。(11年4月28日 読売新聞)

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(2011年6月3日入力)
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