「九条の会・わかやま」 196号を発行(2012年7月10日付)

 196号が7月10日付で発行されました。1面は、「和歌山障害者・患者九条の会」6周年の集い 放射能のあるところ必ず差別がある(山崎知行医師)、専守防衛は集団的自衛権と相容れない しかし専守防衛の強調は軍事力正当化の危険(浦田一郎氏 ① )、九条噺、2面は、オスプレイ 和歌山上空でも低空飛行訓練、言葉「あたらしい権利」  です。

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[本文から]

「和歌山障害者・患者九条の会」6周年の集い開催
放射能のあるところ必ず差別がある
山崎知行医師が講演


 6月24日、和歌山市ふれ愛センターで、「和歌山障害者・患者九条の会」6周年の集いが36名の参加で開催されました。
 総会では、この1年間を総括し今年度の取り組みを話し合いました。新たな障害者福祉法や憲法、防災の学習会、戦跡巡りなどに取り組むことが確認されました。「行事や取組みの案内を幅広い人たちにどう知らせていくか」「課題を抱えていても出て来られない障害者や家族への働きかけをどうするか」「マスコミなど知らせるべきところにしっかりと知らせていくことが大切」などの貴重な意見が出されました。
 記念講演は岩出市の内科医師・山崎知行氏に「放射能のこともっと知ろう」というテーマで話していただきました。先生は毎月福島を訪問し子ども健康相談をされています。
 福島の子どもたちの一番多い症状は鼻血とのこと。1時間出血が止まらなかった子どももいる。でも、放射能が心配だからと病院に行っても診てくれない(放射能の疑いで受診に来ても対応しない申合せ?)。原発の事故後福島入りした長崎大学の山下俊一教授が、年間の被曝線量は100ミリシーベルトまで大丈夫との大キャンペーンを行い、県はこれを受け入れた。そこで福島では今、「放射能が心配だ」という当り前のことが周りに話せない社会になっている。「子どもには福島県外産の米にしたくて、子どものご飯と大人のご飯は別々のお釜で炊いている」と、あるお母さん。また、ある園長さんの話では、子どもを外で遊ばせるかどうか、どっちにしても保護者から必ず反対する声が出る。
 「宇宙空間は放射線がたくさんあるので生命は存在できない。地球は放射線がほとんどないので生命が誕生できた。その地球に放射能という宇宙の論理を持ち込んではいけない。放射能のあるところに必ず差別がある。原発は命を大切にしない、お金のためだけの人間の浅ましい政策である。命が守られないという意味において9条の根本に関わる重大な人権問題である」と結ばれました。静かな語り口の中にも強い信念と激しい憤りを感じさせる内容で、とてもわかりやすいお話でした。
 人権とは命を大切にすることです。6周年を迎えた本会は、未来の私たちや、そして子どもたちのために、また新たな一歩を確実に刻んでいきたいと思います。(世話人・野尻誠さんより)

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専守防衛は集団的自衛権と相容れない
しかし、専守防衛の強調は軍事力正当化の危険も


 6月9日の「九条の会発足8周年学習会」で、明治大学教授・浦田一郎氏が話された「『専守防衛』論と国会審議の重要性」を「九条の会」ニュース159号から2回に分けてご紹介します。今回は1回目。(紙面スペースの関係で若干要約しています)
浦田一郎氏 ①

 政府の憲法解釈の自衛力は「自衛のための必要最小限度の実力」と説明されます。憲法9条で戦争を放棄しても、国家固有の自衛権は否定されないという論理です。この「実力」は武力とほぼ同じで、経済援助や米軍基地の提供、後方支援は、憲法9条は禁止していないといいます。これは、侵略戦争でも後方支援なら9条には触れないということを意味します。そして、この「自衛のため」は個別的自衛権のことだとされます。ということは憲法9条のもとでは集団的自衛権や集団安全保障のための実力は行使できないことになります。米国が攻撃を受けた場合に自衛隊が前線で戦うことは認められないということです。国連の行動に参加する集団安全保障の場合も武力行使はできないと説明されます。「自衛のための実力」には、さらに「必要最小限度」という制限がつきます。具体的には、海外派兵の禁止、交戦権の否認、攻撃的武器保有の禁止等があげられます。
 以上の原則は憲法の要求だと政府は説明します。これに対し、非核3原則、武器輸出3原則等は直接的な9条の要求ではなく、政府の政策原則と説明します。しかし、9条がなければこのような政策原則も立てられないわけで、憲法的背景を持っています。政府が特に説明しないものでも、9条の影響は各種の立法にも及び、例えば土地収用法の対象に、戦前は軍事関係、基地関係が列挙されていましたが、戦後、憲法が戦争を放棄したことに伴い削除され、現在もそのままです。探していけば日本の法律のいろいろなところに9条の影響が及んでいます。
 このように9条の影響は、政府解釈を前提としても相当程度の広がりを持っており、安保や自衛隊を正当化する意味がありますが、同時に理由をつけて正当化しているため、その理由は逆に制約にもなります。その代表が、集団的自衛権は行使できないとされていることです。このような制約が政府解釈の中で出てきたのは、9条があり、9条をどう解釈するかの憲法学界の多数説があり、市民運動などがあるからです。
 政府の憲法解釈の中心的理念として「専守防衛」があります。「防衛白書」では基本方針ではないところに出てきます。憲法原則ではない政策原則というわけです。その定義は、「相手からの武力攻撃を受けた時にはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」となっています。
 専ら守りに徹するという考えのもとで「基盤的防衛力」が出てきます。それは「限定的かつ小規模な侵略については、原則として独力で排除することとし、・・・」というものです。脅威に対応するとなれば、脅威が増大すれば、いくらでも日本の軍事力は増大するので、そういう考えは採らないとしてきました。ところが10年の「防衛計画の大綱」の前から、「従来の『基盤的防衛力構想』によらない」とし、その代りに「動的防衛力の構築」を打ち出しました。それは「より実効的な抑止と対処」のため、即応性、機動性、柔軟性、多目的性を備えた防衛力と説明されます。また防衛装備品をめぐる国際的な環境変化に対応するとの口実で、武器輸出3原則の再検討をこの「大綱」に書き込みました。そして11年12月の官房長官談話で、米国のための武器技術の援助など個別的に認めてきた例外を、一定の部分に拡大するとして3原則を緩和しました。米国や日本の財界の強い要求によるものです。
 このように基盤的防衛力の考え方を捨て、武器輸出3原則の緩和を言いながら、専守防衛に徹すると言っているのは、「専守防衛にふさわしい防衛力」の正当化という形で軍事力を拡大する側面をもっています。そして政府統一見解では、安保条約と相まって日本は専守防衛だといいます。これは、米国の核抑止力への依存を意味します。安保と専守防衛と合わせた日本の防衛構想全体は、攻撃的なものなのです。
 今の改憲論の中心は集団的自衛権行使の解禁であり、これと専守防衛は相容れません。今後専守防衛論を定義し直したり、取り下げることにも警戒する必要があります。今、専守防衛論を守らせることは、深く安保体制とセットになっています。また専守防衛を守らせるという議論は、そのための軍事力なら正当化される危険も出てきます。ある種の軍事力を前提とする議論は、逆にすると限定された軍事力を正当化します。例えば核廃絶といえば通常兵器は正当化される可能性があります。この危険にも注意する必要があります。(つづく)

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【九条噺】

 野口雨情は、北原白秋、西條八十とともに日本の童謡界の3大詩人といわれる。今年は雨情の生誕130年だという。野口雨情といえば「七つの子」。ラチもない話で恐縮だが、小生はこの「七つの子」について、「七つ」というのが「七歳」なのか、カラスのヒナが「七羽」なのか未だに判然としない。カラスの「七歳」といえばもちろん子どもではないし、さりとてカラスが育てるヒナはせいぜい3~4羽ではないか。野口雨情記念館館長(雨情の孫娘)によれば「雨情の子が七歳の頃に作ったので、多分七歳では」との由。他にも諸説紛々で未だ〝藪の中〟▼それはさておき、野口雨情の教育論には学ぶことも多い。一路戦争へと向う時代に、教師と児童の民主的な人間関係の確立や、自由で創造的な雰囲気の学校経営の大切さを説いたのである。そして管理教育を鋭く批判して「一から十まで文部省の命令通りに規則を遵守し、軍隊のやうに児童を導いて行く事のみに努めている有様」など「薬にしたくも無い」(童謡十講)と断じ、「一国の文化・進歩は決して一部少数者によって出来るものではなく、最大多数の平民・民衆によって築かれていく」(同)とも▼野口雨情は「暗に戦争を奨励する歌詞を好んで歌わせるやうな」当時の教育を痛烈に批判し、全国に童謡を普及する活動を通して文部省いいなりの教育とたたかい続けた人なのである。(佐)

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オスプレイ、和歌山上空でも低空飛行訓練

 時事通信は、「米軍普天間飛行場への配備が予定されているMV22オスプレイについて、米海兵隊が東北、四国、九州地方など日本本土で低空飛行訓練を計画している。米軍が日本政府に示したオスプレイ配備に関する環境審査報告書によると、低空訓練を行う地域として東北に2、信越、近畿・四国、九州、奄美諸島に各1の計6ルートを設定し、全体で年間330回の訓練を行う。訓練は平均約150mの高度で実施、訓練回数のうち28%は夕刻、4%は夜間に行い、毎月2~3日、2~6機のオスプレイを普天間から展開する」と報じています。
 6ルートのひとつは「オレンジルート」と呼ばれ、和歌山県日高地方から徳島県・愛媛県に設定されたルートです。和歌山県民が事故に巻き込まれる可能性があります。仁坂吉伸和歌山県知事は6月25日の県議会で、「大変危険性を伴い県民に不安を与えるものであるため訓練には反対である」と表明しています。沖縄県議会、沖縄41全市町村議会も配備に強く反対しています。このような危険な輸送機の配備、ましてや低空飛行訓練など許されることではありません。

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言葉「あたらしい権利」

 環境権やプライバシー権などの「新しい権利」が憲法にないから、それを導入すべきだという議論があります。自民党憲法改正草案には「環境保全の責務」条項があります。しかしそれは、9条改悪のあまりの酷さを少しでも覆い隠そうとするもので、9条を中心とした改憲をしたいがためのものです。
 「新しい権利」は日本国憲法には明示されていませんが、裁判所が憲法を根拠に憲法上保障されると認定すれば、保障されると考えるのが判例や学界の考え方です。プライバシー権は13条の幸福追求権を根拠に今では認められています。知る権利は21条が根拠です。環境権は、憲法上保障されると考えるのが圧倒的多数考えで、根拠は13条の幸福追求権と25条の生存権です。「新しい権利」は日本国憲法で十分対応可能で、憲法「改正」をしなくても保障できます。
 一方で、例えば25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定しているのに、政府は、生存権は政治宣言的な権利であって、必ずしも裁判上の権利ではないと、きちんと保障していません。改憲によって「新しい権利」を入れたところで、同じような対応がされる可能性があります。(清水雅彦氏の「市民憲法講座」より要約)

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(2012年7月12日入力)
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