「九条の会・わかやま」 206号を発行(2012年11月24日付)

 206号が11月24日付で発行されました。 1面は、紀南ピースフェスタ2012 内容充実で開催、9条の魂を今一度選びとろう(奥平康弘さん②)、九条噺、2面は、押し付けられたのは当時の遅れた発想の日本政府(吉田栄司さん ②)  です。

    ――――――――――――――――――――――――――――――
[本文から]

紀南ピースフェスタ2012、内容充実で開催

 3年目を迎えた紀南ピースフェスタ。田辺西牟婁地方の9条の会や環境、脱原発などで活動している会など12の団体やサークルが企画・出展し、開催されました。2日目が終日雨天であったことなども響き、参加者が300人とやや少なめでしたが、中身豊かな充実した祭典になりました。

 第1日は、人形劇団「あした」の公演で幕が開き、パペット(指人形)による動物と環境破壊を考えるワークショップ「パペットワールドへようこそ」が行われ、午後は、岩国で米軍住宅建設反対運動を行っている岡村寛さんによる講演会「オスプレイ強行配備から日米安保を考える」があり、岡村さんは、岩国基地の危険と騒音対策のために1㎞沖に滑走路を移設し、埋め立て土を切り取ったあとに愛宕山住宅団地を造る当初の計画が、米軍の再編のための岩国基地の強化に、市民のための住宅地が米軍住宅用地にすり替えられていったこと、それに対する闘い、さらにオスプレイ強行搬入と反対運動について、生々しく語られ、これらの闘いを通してアメリカべったりの日本政府の実態と日米安保体制の危険性、さらに今日声高になっている改憲の策動はますます対米従属に雪崩を打つ結果となることなど、体験を通して訴えられ、大きな共感をよびました。

 2日間の展示は、「フクシマ2012」「広島・長崎被爆写真展」「丸木位里・俊・原爆の図展」などが会場ロビーを飾り、地域の作業所のパン、クッキー、喫茶の出店もありました。
 2日目は、映画「カンタ!ティモール」「内部被ばくを生き抜く」の上映があり、最後は、フィナーレコンサート(なつお meets 南風)とリレートークで閉めました。
 (田所顕平さんより)

    --------------------------------------------------

9条の魂を今一度選びとろう

 「九条の会」は9月29日、「三木睦子さんの志を受けついで 九条の会講演会 ― 今、民主主義が試されるとき」を開催しました。呼びかけ人の大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝の3氏が講演されました。講演要旨を「九条の会ニュース164号」から、順にご紹介しています。今回は4回目で、奥平康弘さんの後半部分です。

奥平康弘さん ②

 加藤典洋という文学評論家がいます。彼は15、6年ちょっと前に『敗戦後論』という本を書き、その中で、敗戦という超絶的な運命を日本・日本国民はどのように受け止めたかを論じ、押しつけられた憲法から出発したことをきちんと自覚し、そういった性質のものを自分たちはあらためて「選び直すべきだ」と論じています。
 「選び直し」とはどういうことか。私などは、たとえば砂川訴訟などを通じ、憲法9条を見ていただけではなく、私たちもいっしょになって守ろうとした。つまり、加藤さんの言葉を使うと、そういう形で私たちは「選び直す」ということをずっと続けてきている。憲法9条に関する訴訟で、紛う方なくその時その時のその状況にあわせて、私たちは9条の魂を選びとってきた。それは「55年体制」以降、今にいたるまで。
 それを培ったのは何か。ちょっとおもしろい話をご紹介しますが、「自衛隊があったからって困ることはない。何も憲法9条を改正する必要はないじゃないか」という議論がある。自衛隊は国民に受け容れられている、という種類の改正反対論あるいは改正消極論です。
 そういう議論に対し、加藤典洋氏の、「十年後の敗戦後論」という論文(『論座』07年6月号)がある。今はもっと危機が深まっていると言える時期ですが、10年後の論文でも相変わらず「選び直せ」と書いている。しかし他の視点もある。自衛隊がいて困ることはない、何も憲法を変える必要はない、という評論家がいるが、彼は「イヤちょっと待て」と言う。「この憲法はいったい何を戦後の日本に与えてきたのか。この憲法は何を戦後国民に与えてきたか。それを一言で言うと、高邁な理念である。これは失うべきものであってはならない」と言う。さすが文学者というのはこういう感情を持っているのかと感心しました。
 日本国憲法は押しつけられたなどといいますが、亡くなられた加藤周一さんは、「押しつけられたからといっても、中身がよければいいではないか」とおっしゃった。9条も押しつけられたということはあるかもしれない。しかし、あの「高邁な理念」を、押しつけられた私たちが私たちの感度に合うものとして承認し、「選びとってきた」。裁判一つひとつとっても選びとってきた。国民のものになってきた。9条をめぐる争いをつうじ、9条はいかなる字句の改正もなしに今でも生命力をもっている。
 これが気にいらないので、自民党が改正案を出しました。それは、9条だけをもってくることは避けた。いついかなる世論調査をしても9条は人気がある。だから、水増しして全文改正にする。けれども中心になっているのは明らかに9条です。しかも自民党も96条改正を出してきている。自民党草案は、「この憲法の改正は、衆議院または参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない」。明らかに過半数という言葉と3分の2の違いは小さな違いに思われがちなほど技術的な要素がある。
 ここにきて、いろいろな矛盾をさまざまな分野で激化させているので、なんとか転機を見いださなければならないというのがこうした動きの背景にある。そういう重要な時期にあることを強調したいし、そのなかでわが九条の会は結成時の原点にたって草の根からの運動をすすめて、9条の魂を空虚な理想だなどと言わないで、今一度われわれは「選びとる」ことをしたいと思います。

    --------------------------------------------------

【九条噺】

 今年は荒木栄の没後50年。うたごえサークルを中心に荒木栄について語り、彼が作曲した歌を合唱する等の催しが全国各地でおこなわれていると聞く。以前このコラムでも紹介した合唱組曲「地底のうた」も彼の作品である▼「炭鉱労働者」といえば、最近、上野英信(1923~87)という素晴しい人のことを知った。上野氏は京都大学を中途で辞め、故郷も捨てて筑豊で炭鉱労働者になり、退職後は記録作家として『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)などの作品を発表、前近代的な炭鉱労働の実態や閉山で路頭に迷う多くの人々の窮状を訴えた。晩年は晴子夫人と共に旧炭住に「筑豊文庫」を開設し、自らは「炭鉱の語り部」として活動を続けた▼晴子夫人(1926~97)が著した『キジバトの記』(海鳥社)はとてもすぐれた作品で、英信氏の人となりや夫妻の暮らしぶりなどが生き生きと伝わる。それによると、「社会変革の闘士」のような英信氏だが、家庭内ではしばしば〝暴君〟であった由。「『法皇の騾馬(らば)になる』と歯を食い縛って耐えることもあったが、記録文学者・英信に対する尊敬は最後まで揺らぐことはなかったし、私を筑豊に連れてきてくれたことに感謝していたから、ここではついに『法皇を蹴飛ばす』結果にはならなかった」と晴子夫人▼この夫妻は目下筆者の〝元気の素〟である。なお、夫妻の一子上野朱(あかし)さんは「むなかた九条の会」呼びかけ人としてもご活躍である。(佐)

    --------------------------------------------------

押し付けられたのは当時の遅れた発想の日本政府

 11月3日の「第9回憲法フェスタ」で関西大学法学部教授・吉田栄司さんが「改憲派は憲法を変えて日本をどんな国にしようとしているのか」と題して講演されました。その要旨を3回に分けてご紹介しています。今回は2回目。

吉田栄司さん ②

 45年、日本は敗戦を迎える。GHQは50数カ国を背景にしていた。世界水準のものを押し付けた勢力は世界の圧倒的多数で、押し付けられたのは当時の遅れた発想の日本政府だ。GHQは日本政府に基本的人権の尊重、民主主義的傾向(大正デモクラシー)の復活の強化などを指示した。GHQは日本政府がポツダム宣言をしっかり受止めれば、自主的に憲法を作ることを委ねようとしていた。しかし、松本蒸治大臣は明治憲法の形式的修正案しか作れず、GHQは急遽草案を作る作業に入り、最先端の草案が日本政府に押し付けられた。押し付けの側面は明らかにあるが、日本国民は広くこれを受け入れた。国会審議では18カ条にわたって書き換えが行われ、これに対してGHQはあれこれの指示はしていない。
 日本国憲法は日本が世界で、取分けアジアで再出発できるように、GHQは天皇を残した方がいいと判断した。日本が民主化するには天皇が率先して民主化すべきだと国民に言う方が国民は動きやすい。天皇を断罪すると日本が混乱すると、大統領制を取らず天皇象徴制とした。軍は形式的にも残さない方がいいと幣原が提起した。原爆という兵器が出た以上国民を守るための軍はありえないし、軍は日本国民を苦しめ、対外的にも何千万人も殺すということまでしたので、軍は持たないと9条で決めた。国民の自由は40条まで延々と書かれている。特筆すべきは被疑者・被告人の権利は異例なぐらい詳細に31条以下いっぱい書いている。これは治安維持法下の前史をGHQが知っていたことの証拠でもある。GHQは権利実現、権利保障こそ公務なのだということを明確にした。憲法は正に役人・役所、天皇を筆頭に税を使い、税をもらう人すべてを拘束する国の基本法である。国の働きは国民一人一人の自由・平等、人権を実現するために権力を分立させる。内閣は全て法律に縛られてやらねばならないとし、その法律は国民の代表が作る。作った法律や行政が憲法違反なら裁判所が独立した形で違憲無効の判断をする。さらに地方自治という縦の分立も取り入れている。「地方公共団体は民主主義の学校である」と言われる。これが憲法の仕組みであり、人権実現の手段ということになる。
 そういう憲法であったが、残念なことにアメリカがルーズベルトでない形に変わっていて、東西緊張が出てくる。ドイツは49年までずれ込んで東西分裂が確定する。トルーマンは原爆の優位性を背景に強硬な動きを展開し、GHQの動きに次々ストップをかけることになった。まず、ワイマールで定められた弱者の権利、取分け労働者の権利にストップをかける。改めてのレッドパージみたいなことを開始すると同時に、まず公務員は労働基本権はないものとすると止めてしまう。公務員は試験があるため最も勉強しており、彼らが労働者の先頭に立つと、こういう憲法下では日本はあっという間に社会主義的傾向を強める可能性があると考え、40年代後半の東西ドイツ分裂などを契機として日本は大きく右展開をさせられてしまう。その中でGHQによって旧憲法下の体制側と言われていた人たちが次々に釈放されていく。アメリカにとって都合のいい日本の再生に資すると思われる人物がピックアップされ、次々に保守的な勢力が登場させられていく流れになる。51年に日本を再独立させようと、日本は講和条約を締結する。その段階でアメリカとだけ日米安保条約を結ぶ。GHQはそのまま在日米軍となって残った。三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保を押さえ、さらに沖縄を押さえた上で手離さなかった。72年の施政権返還で今年40周年になったが、依然としてアメリカの言うがままにある。日本国憲法が最高水準で出来たにも拘らず、それを実現しようかというその瞬間に日本政府がアメリカ政府の意向に即して右展開していった。日本では野党が憲法を実現せよと言い続けなければならない状態が続き、辛うじて衆議院で3分の1以上いたので、改憲されなかった。(つづく)

    ――――――――――――――――――――――――――――――
(2012年11月24日入力)
[トップページ]