「九条の会・わかやま」 207号を発行(2012年12月8日付)

 207号が12月8日付で発行されました。 1面は、第8回「好きなんよ9条まつり」開催、和歌山大空襲についての学習会開催 和歌山障害者・患者九条の会、戦争否認の気持ちを持ち続けた三木睦子さん(澤地久枝さん ①)、九条噺、2面は、21世紀先取りの日本国憲法を全ての公務員に実現させよう(吉田栄司さん ③)  です。

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[本文から]

第8回「好きなんよ9条まつり」開催

 「九条を守ろう」那賀郡の会は11月25日に桃山スポレクセンターで、第8回「好きなんよ9条まつり」を開催し、約300名が集いました。呼びかけ人・増田博さんは開会挨拶で、「衆議院が解散され、雨後の竹の子のようにたくさんの党が出来た。なかでも、一度は首相の座を投げ出した安倍自民党総裁の発言は目に余るものがある。集団的自衛権を認め、自衛隊を国防軍に格上げし、憲法を改正すると公然と言い出した。輪をかけて、石原前都知事が核のシミュレーションも必要とか、橋下大阪市長などは東北震災後のがれき処理が進まないのは憲法9条があるからだ、などと訳の分らないことを言って、日本を国家主義的、全体主義的な方向に持っていこうとしている。こんな危険な人物を絶対に当選させてはいけない」と力説されました。平和のリレートークでも、9条の大事さ、原発の危険性の指摘、原発ゼロの運動の広がり、核兵器廃絶の気運が国際的にも進んでいるなどの話が語られました。

 舞台では、歌や楽器演奏、踊りなど盛りだくさんの催しもありました。模擬店ではたくさんの食べ物も出され、厳しい情勢の中でも楽しく祭りを終えることができました。(部家司好さんより)

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和歌山大空襲についての学習会開催
和歌山障害者・患者九条の会

(汀公園の供養塔)

 和歌山障害者・患者九条の会は11月11日、和歌山大空襲の痕跡を訪ねるハイキングを計画し、汀(みぎわ)公園の慰霊碑、寄り合い橋、中橋のお地蔵を回る予定でしたが、あいにくの雨。和歌山市あいあいセンターで学習交流会を行い、初参加者も含めて24名が集いました。
 講師の平井章夫先生より、ご自身が13歳のときに体験された和歌山大空襲を中心にお話をいただきました。1945年7月9日、108機のB28が来襲、23時58分から翌1時48分にかけて800トンの焼夷弾が投下されました。火柱は3000mにも達し、遠く離れた龍神村からも確認されたそうです。最も被害が大きかったのは旧県庁跡(現在の汀公園)。当時ここは広い空き地であったため、多くの人が避難してきました。被害を大きくしたのは、竜巻の発生で、燃え盛る中心地の空気が熱くなり、周辺から空気が流れ込み、風速30mもの大旋風となりました。人々は焼かれ、飛ばされ、まさに焦熱地獄でした。和歌山空襲で1208人が犠牲になりましたが、旧県庁跡で実に748人が亡くなりました。
 改憲の動きが大きくなりつつある今、九条の会はこれからますます重要になってくる、と締めくくられました。そして参加者の数人から和歌山空襲の体験や、日頃の思いが語られました。
 その後は弁当を囲んで自己紹介で交流です。外を歩くことは適いませんでしたが、熱気あふれるとても内容の濃い学習会となりました。真実を知ること、知らせることの重要性をみんなで学び合うことができたように思います。(野尻誠さんより)

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戦争否認の気持ちを持ち続けた三木睦子さん

 「九条の会」は9月29日、「三木睦子さんの志を受けついで 九条の会講演会 ― 今、民主主義が試されるとき」を開催しました。呼びかけ人の大江健三郎、奥平康弘、澤地久枝の3氏が講演されました。講演要旨を「九条の会ニュース164号」から、順にご紹介しています。今回は5回目で、澤地久枝さんの前半部分です。

澤地久枝さん ①

 三木睦子さんは、いろいろな人生経験を経て、若い時から戦争否認の気持ちを強くもち、九条の会の初めから亡くなられるまで、きっちりとした生き方を示されました。
 三木さんは、敗戦1カ月前の昭和20年7月、家族の一人は生き延びてほしいと、徳島の三木武夫さんのお母さんに長女を預けようとした。睦子さんは背中に長男を負い、4歳の長女の手をひき、夫の武夫さんは持てるだけのものを持って旅へ出ます。日本中空襲ですから、鉄道が破壊されて線路などない。枕木伝いにずっと歩き、列車が走っているところはかろうじて超満員の列車に乗り、ともかく徳島の三木邸についた。五右衛門風呂に長女を入れると、4歳の子は気丈に「戦争が終わったら迎えにきてね」と言う。しかし父である三木さんは娘の体を洗ってやりながら手ぬぐいで顔を拭いて涙を隠したというのです。東京に帰っていく両親は明日もわからない、と思ったでしょうね。睦子さんは、戦争はなんてひどいのだろう、一日も早くやめなければ、という気持ちがふつふつと湧いたというのです。戦後67年、ずっとそういう気持ちをもって生きてきたのです。
 07年6月ですが、三木さんは九条の会の学習会に行っています。どうしても言わなければならないことをもっていたのです。それは戦争中に、陸軍が後ろで糸をひいて日本の政治を動かす大政翼賛会があって、総選挙がありますが、大政翼賛会の推薦を受けないで選挙をたたかって勝った人のなかに三木武夫さんがいます。話は、その非推薦議員の中にいた安倍寛という人です。安倍寛のことを、三木さんはどうしても若い人たちに言いたかった。戦争がだんだんひどくなってきた時に、安倍寛さんは早くに奥様を亡くされてご飯の支度をする人がなく、夜ふけて、特高につけ狙われながら、夜陰に紛れてやってきて、「奥さん、何か食べるものはないですか」と言われたというのです。三木さんは、この人は本当に食べるものに困っている。しかもご自分は特高につけ狙われながら、平和のために、戦争をなくすために安倍寛さんは三木武夫さんと夜中にひそひそと話をして、そして話を終えると「じゃ」と言って闇の中に消えていったというのです。三木さんが伝えたいのは、かつて総理になった安倍晋三氏について、マスコミはなぜ母方の祖父の岸信介の縁ばかりいうのか。父方の祖父の安倍寛という、戦争をしてはならないと骨身を削った人がいたことを知るべきなのです。三木睦子さんの思いは、よく伝わってきました。そういう語り手でした。
 最後まで頭は明晰で、話が上手で、政治家の妻として信念もって演説をしてきた人だと思いました。そういう三木さんを失った痛手を思います。
 最近テレビのニュースで、アメリカの海兵隊と日本の陸上自衛隊が、グアムの海岸を使って島嶼奪還作戦をやっているのを見ました。何か顔に塗っていてアメリカ人か日本人かわからない。でも、島嶼を奪い返す作戦をアメリカと一緒にやる必要があるのですか。自衛隊が国外に出ていくことも憲法違反なのに、出ていったら、こういうことまでやるのかと非常に腹をたてて見ました。新聞がカラーであのすごい顔を報じたら、みんなぎょっとするでしょうが、やりませんね。(次号につづく)

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【九条噺】

 少し前、朝日新聞に嘉手納基地の近くに住む女性のことが載った(8月2日)。大阪で生まれ、7歳で広島に引っ越し、13歳の時、町工場で原爆に遭い、母親や兄妹を亡くした。父の故郷の奄美に帰ったが、その父も急逝、ひとり沖縄に渡って働き生きてきた。被爆者手帳のことは被爆後38年も経た83年に友人に教えられようやく取得したという。かなり遅いが、しかし沖縄の被爆者自体が当初は〝埒外〟におかれた▼沖縄で初めて被爆者の存在が明らかになったのは63年、石垣市の女性が名乗り出てからで、最初の手帳交付も原爆医療法施行10年後の67年だった。厚生省(現厚労省)というところは、〝申し出がないと決してやらないお役所〟らしい。だから何も知らない多くの被害者が置き去りにされる▼朝鮮人被爆者の場合はもっとひどい。広島・長崎で約7万人の朝鮮人が被爆して、爆死者は約4万人。生存者約3万人のうち終戦後に帰国した人が約2万3千人(「被爆者援護法裁判資料」)。しかし韓国原爆被害者協会の調べでは、在韓被爆者数は推定1万3千人余、北朝鮮は1千人余。うち協会登録者は韓国で2千人余、北朝鮮では被爆者健康手帳の保有がわずかに1人となっている(99年4月)▼要するに、どの調査人数もまだまだ「推定」の域を出ず、多くの被爆者が援護もなく病気で苦しみ、或いは「難病で死亡」とされてきた。こうして無理な「徴用」・強制連行が招いた悲劇は未だ続いているのである。(佐)

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21世紀先取りの日本国憲法を全ての公務員に実現させよう

 11月3日の「第9回憲法フェスタ」で関西大学法学部教授・吉田栄司さんが「改憲派は憲法を変えて日本をどんな国にしようとしているのか」と題して講演されました。その要旨を3回に分けてご紹介しています。今回は3回目で最終回。

吉田栄司さん ③

 54年に自衛隊を作らされた。55年に政界の中に軍にしようという動きがあった。吉田茂、鳩山一郎らが日本の再軍備化の流れを作った。75年にベトナム戦争が終ったが、アメリカの最大の教訓は「米兵を死なせ過ぎた」であり、アジアでのアメリカの権益を守るためには、「アジア人をもっと使って然るべし」「日本の自衛軍、徴兵制を早急にやって然るべし」との、ニクソンの話を田中角栄も聞いていたと言われる。82年の中曽根康弘首相の登場で、レーガンと日本を不沈空母にすると、日本の再軍備化を進めようと動いたが、時期尚早となり頓挫した。それで、まだ3分の1を保持する社会党を潰そう動いた。その大きな後押しになったのが、89年のベルリンの壁崩壊であり、翌年のソ連崩壊であった。アメリカの一極支配体制になり、今こそ日本軍を作らせて、アメリカの権益を守るために日本人をアジアで使いたい、早くそうさせたいと考えた。日本の財界にとっても不況を克服する最大のものは軍需であり、戦争が出来る国は国民が「うん」と言いさえすればOKで、その欲がアメリカにも、日本独自にもある。それを国の枠組みとして実現するには軍を憲法に打ち込むことだと、手を替え品を替え、憲法を変える風潮を作り続け、社会党をダメにするために一番大きいバックの国労・日教組などを潰す必要があると、組合員をバラバラにする「教育改革」や「民営化」が進められた。総仕上げとして小泉内閣で「郵政民営化」が行われ、社会党は潰れていった。二大政党を実現するためにと、90年代に選挙制度改革が行われ、今に繋がるのである。
 「維新」は、特に二大政党作りの亜流のような形で出てきた。自民党もダメ、民主党もダメと保守財界も思うに至り、国民もそう見ている。そのような中で、保守二大政党の作り直しを保守財界は考えている。新たな保守勢力として「維新の会」が出てきた。第三極と言っても今の2つと全く同じ改憲勢力だ。その限りで財界の要望に即した動きをしている。「維新」と名乗っているが、これには「復古」(王の挿げ替え)という極めて保守的な側面も持っている。それ以上に大衆扇動主義(ポピュリズム)で、みんなの喝采を背景に一旦選出されたら全て上位下達。憲法の到達点を実現しない政府を持ち続けて、イライラしている政財界が不況の中、一挙に日本を軍需の中に持ち込んで、アメリカの要請にも半分応え、軍を憲法に打ち込めば、これに反対する学問、言論、取材・報道は規制して当然、つまり人権も、統治機構の民主的な枠組みも手続きも、裁判さえも、軍優先になり得る。儲けたい人たちはそうしたい。それに乗るのかどうかということを我々は問われている。軍とは物を破壊し、人を殺傷する組織体で、建設的な命と暮らしを守る存在ではない。ではどうするかだが、我々自身が主権者として21世紀先取りの日本国憲法をすべての公務員に実現させるべく、今こそ私たち一人一人が日本国憲法の描く人類史的視野に立って不断に努力する個人像に則し、改正ならぬ改悪動向を阻むよう、動かなければならない。(おわり)

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(2012年12月10日入力)
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