森 英樹 氏 ②
安倍首相は総選挙に圧勝し、アベノミクスで高支持率となり、改憲にすぐに着手するつもりでいたが、安易な手法の96条先行改憲という戦略が出てきた。しかし、各界から激しい批判を受け、「96条の会」も出来てしまった。改憲派の小林節教授も「96条改憲は姑息な裏口入学だ」と怒り出し、会の代表に加わった。自民党の長老も反対し、世論は激変し一気に形勢は変わり、参院選では「96条改憲」を公約に入れられなかった。参院選でも自民党は勝ったが、維新は凋落したので、改憲派は、自民・維新・みんなを合わせても3分の2の161を超えていない。しかし、衆参のネジレは解消し、改憲派は衆参で過半数を制し、法律で憲法を壊せる力関係が出来たので、「壊憲」を先行させ、当面はこの路線で行けるところまで行くという方向に重点を置いている。だが、法律を次々と作るのはパワーがいるので、出来れば憲法をまとめて変えたいという思いは消えていない。そのために、国民投票法を今国会中に動かせるように改定する計画も着々と進んでいる。「改憲」も予断を許さない状況が続いている。
参院選で、どんどん法律を作れる、閣議決定も出来る体制になったので、9条は変えないで、9条を変えることを前提とした政策が次から次へと出てきている。13年6月に自民党は「新『防衛計画の大綱』策定に関わる提言」で「現行憲法を前提にしない」とした。これはとんでもない憲法壊しだ。たった半年で16項目もの「壊憲」が行われたが、その多くがこれまでは1内閣で1つ出来ればいいというほどの重いものばかりだ。
ざっと見ると、内閣法制局長官に集団的自衛権行使合憲論者・小松一郎氏を任命した。歴代の長官は「集団的自衛権行使は違憲だ」と言い続けてきた。まさに露骨な人事だ。この姑息な道を小泉内閣の時の阪田長官が激しく批判をしている。「安保法制懇」は集団的自衛権行使をお膳立てする組織だが、法的根拠のある審議会ではなく、首相の私的諮問機関に過ぎず、人選も国会のコントロールは働いていない。知的権威のある組織のように宣伝されていることが問題だ。アルジェリアでの人質事件を念頭において在外邦人救出に陸上自衛隊を投入すると自衛隊法を改めた。相手国の領土に入る場合も相手国の了解なしに入れるとした。自衛隊の武器の携帯の厳しい規制を邦人救出では事実上全面解禁をし、2月には武器使用制限も解除した。もう一度人質事件が起ると今度は確実に戦闘になるということだ。こんな恐ろしいことが、余り注目もされず際限なく決っている。昨年の臨時国会では反動極まりない様々な法案成立と基本政策の大転換が、あれよあれよと進んだ。国家安全保障会議は動き出しており、何が動いているのかは秘密になっている。事務局には自衛隊の制服組が大量に入っている。秘密保護法は施行差し止め訴訟や廃案運動も起っている。国家安全保障戦略では「専守防衛」をうたった57年の基本方針をあっさりと大転換した。「専守防衛」に代わる「積極的平和主義」とか、「武器輸出の原則」も変えてしまう。そして、「我が国と郷土を愛する心を養う」という国民意識の改造までもがこの戦略に入ってきた。いわば現代の国家総動員体制だ。「防衛計画の大綱」も出した。ここでは「統合機動防衛力」「陸上自衛隊に海兵隊的機能を持たせる」「敵基地攻撃能力保有」をうたい、これらの実現のために「中期防衛力整備計画」では向こう5年間に25兆円を投入するという大軍拡だ。消費増税は国民の命と暮らしのための予算ではなく、軍事と公共事業に振り向けられる。凄まじい公約違反だ。この予算は政府が60年間言い続けてきた「専守防衛」に限定するという、その限定すら大幅に超えてしまった。
昨年、爆走してきた安倍首相がその成果を報告するとして12月26日に靖国神社を参拝した。後から見るとこれが下り坂の始まりであったような気がする。この翌日に普天間基地を辺野古に移転すると決めた。普天間よりはるかに巨大な基地の建設について沖縄振興費という札束で仲井真知事をねじ伏せて移設手続きを承認させたが、名護市長選挙では移設を拒否する稲嶺市長が圧勝した。2月12日には「憲法解釈の最高責任者は私だ」というとんでもない、誰が見ても誤りと解る暴言発言をした。これには、さすがに首相周辺の政治家も批判の声を上げている。3月11日には「武器輸出3原則」を大幅に変えることを決定した。67年の佐藤内閣の時に出来たが、76年の三木内閣が3地域以外でも武器輸出は「憲法の精神に則り慎む」ということを打ち出した。これは画期的だった。81年には国会も「憲法の理念である平和国家」としての立場を強調してこの原則の徹底を宣言した。日本はこの時以来軍需物資で商売はしないという、先進国では稀有な存在を誇ってきた。従って、紛争の絶えないアフリカ、中東、南米等々でも日本だけは武器を売らない国として、どちらの勢力からも好意をもって見られてきた。しかし、軍需産業は一貫してその緩和を求め、中曽根・小泉・野田内閣の時にかなり重要な例外を作ってしまった。原則禁止から原則可能にする新原則だから完全な転換だ。これで安倍政権の屋台骨が揺さぶられるかもしれない。これから日本は武器を売る国になるので、テロの対象になる覚悟が必要だ。日本は中立的な平和な国ではなくなったということだ。そこまで議論が深まっていないことが問題だ。(つづく)
---------------------------------------------------
【九条噺】
「慰安婦」問題での暴言もたたって、〝人気〟にややかげりがみえる橋下徹大阪市長。昨年5月には、東京・日本外国人特派員協会の会見で「女性の人権は基本的人権において欠くべからざる要素」と述べ「慰安婦」発言にかかわり「女性蔑視」との一部報道に「正反対」とうそぶいた▼その橋下氏が最近の「経済人・大阪維新の会シンポジウム」の講演で言ってくれました。大阪御堂筋はビルの高さが適当に抑えられ、両サイドとも均整がとられているために、銀杏並木とともに美しい都市景観を保ってきた。橋下氏は「大阪再生の究極の切り札」などとしてカジノの誘致やなにわ筋線、淀川左岸線等の延伸などとともに、「御堂筋高級レジデンス」を主張している。御堂筋については、高さ制限は維持したままで、屋上に「レジデンス」(住宅)をすすめるというのである▼で、橋下氏はこの講演で「レジデンス(住宅)やるんですから、財界の皆さんも愛人を2、3人住まわせて、新しい船場にしてもらいたい。お金持ちが住んでくれれば、まわりにお金持ちを狙った高級な飲み屋もくるし、愛人専用の宝石店とか、高級ブティックとかがくる」と▼御堂筋(高さ31m)関一大阪市長(第7代)がパリをはじめ、ヨーロッパの都市を参考に計画し、実現したもの。関市長は都市政策論の学者でもあり、大阪はいわば最高の人材に恵まれたといえる。しかるに今・・・なのである。(佐)
---------------------------------------------------
「憲法9条」ノーベル平和賞候補に
「憲法9条を持つ日本国民」がノーベル平和賞の候補になった。神奈川県相模原市の市民団体が推薦状を送り、ノーベル委員会から受理の通知が9日に届いた。同賞を長年研究してきた高崎経済大の吉武信彦教授によると、一国の国民全体が候補になるのは「聞いたことがない」。9条の存在が国際社会に及ぼす影響についての評価が選考のポイントになるとみる。
「まだ、スタートラインに立った状態」。吉武教授はノミネートされた278候補の1つとなったことをそう表現する。「ただ、受賞すれば世界中の人が存在を知ることになり、国際的な影響力は絶大だ」。選考はノルウェーの国会が選んだ5人の委員が行う。候補を10~20程度に絞り込んだ後、ヒアリング調査を行い、多数決で受賞者を決める。この間、候補者名は公表されない。重視されるのは、賞の創設者ノーベルが平和賞について残した遺言「諸国民間の友好、常備軍の廃止または削減、平和会議の開催や推進のために最大、もしくは最善の活動をした人物」だ。国際政治に良い影響を与えると判断されるかどうかがポイントになるだろう。(4月12日・神奈川新聞より)
---------------------------------------------------
言葉 最高裁「砂川判決」
「砂川事件」の最高裁判決(59年12月)が、今、変な形で「脚光」を浴びている。自民党の高村副総裁が「砂川判決」を持ち出し、「最高裁は『主権国家として持つ固有の自衛権』は憲法上否定されていないと言っており、『個別的』とか『集団的』とかいう区別はしていない。これが自衛権に関する最高裁の判断として『唯一無二』のものだ。だから、集団的自衛権は憲法上禁じられているという解釈は相当無理がある」と集団的自衛権行使容認の根拠にしているものだ。
「砂川事件」とは、日米安保条約とそれにもとづく駐留米軍が憲法9条2項に違反するかどうかが問われた事件で、東京地裁の1審判決(59年3月)は違憲と判断した。最高裁「砂川判決」はそれを覆すために書かれたもので、8月に当時の田中耕太郎最高裁長官が米公使と「私的」に会談して、判決は12月に出され、1審判決を破棄する内容になるだろうと話し、世論を「かき乱す」ような少数意見がつかないように努力すると語ったとのことである。この最高裁「砂川判決」は、政治的な観点から司法の「独立性」を放棄して書かれた文書であり、日本の政治と司法にとって恥ずべき前例である。が、その点を差し引いても、言っていることは、要するに「日本を守ってもらうためにアメリカ軍を駐留させても憲法に違反しない」ということだけであって、「アメリカが攻撃されたときにアメリカを守るために日本が軍事行動をすることも憲法上許される」などということは、行間を読んでもとうてい読み取れない。もし、最高裁が集団的自衛権行使を認めていたのなら、それ以降の政府の憲法解釈は「集団的自衛権の行使は認められる」となったはずだ。そうならなかったのは、判決を縦から読んでも、横から読んでもそのように読めないからに他ならない。(浦部法穂氏の論考「最高裁『砂川判決』と集団的自衛権」を要約)
|