「九条の会・わかやま」 255号を発行(2014年10月2日付)

 255号が2日付で発行されました。1面は、9条と平和的生存権はフジアの人たちへの国際公約(伊藤真さん ①)、市民による国家の枠を越えた国際連帯の重要性(江川治邦さん)、九条噺、2面は、当会呼びかけ人 宇江敏勝さん 熊野の伝説『鬼の哭く山』出版、和歌山県議会 日本会議の請願を可決 憲法改正の早期実現を求める  です。
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[本文から]

9条と平和的生存権はフジアの人たちへの国際公約

 9月16日、和歌山県民文化会館で和歌山弁護士会主催の市民集会が開催され、弁護士・伊藤真氏が「集団的自衛権とは何か~その現状と問題点~」と題して講演をされました。要旨を3回に分けてご紹介します。今回は1回目。

伊藤真さん ①

 日本国憲法の特徴を戦前の憲法と対比すると、天皇主権を国民主権とし、71年間戦争し続けた国を戦争の出来ない国にした。天皇が法律の範囲内で臣民に権利を与えただけを、誰もが人間であることだけで人権が保障されるとした。国は教育内容や宗教に口出しをやめる。障害者・女性・子どもへの差別をなくす。貴族や財閥、大地主などとの格差の是正。自己責任から、助け合い・福祉を充実させるとなった。徹底した中央集権から地方自治を保障した。そして何よりも「お国のために命を捧げること」を強制する国から、「一人ひとりの個人の幸せのために国はある」となった。個人の尊重・尊厳を「個人主義」と言うが、憲法の「個人主義」を誤解している人がいる。これは「利己主義」とか「わがまま」「自分勝手」とは全く無縁のものだ。「誰をも個人として大切にしよう」ということだから、自分も大切だが、他人も大切にしようということだ。戦前の国家主義、全体主義をやめて個人主義に変わったもので、国家や天皇を大切にする国から一人ひとりを大切にする国に大きく様変わりしたものだ。これが戦後レジーム・戦後体制だ。ここから脱却したいという人が今の総理大臣だ。日本を取り戻したいとは、昔の日本は良かったということのようだ。
 日本国憲法の3大原理や個人の尊重は日本の目新しい特長ではなく、近代国家の共通の価値観だ。日本国憲法は近代国家共通の価値観を採用している。憲法は日本を「戦争をしない国」ではなく「戦争ができない国」に大きく変えた。世界の多くの国は平和のために「戦争が必要だ」「集団的自衛権が必要だ」と言って戦争を始める。「イスラム国を放っておいたら大変だ」とイラク、シリアに空爆をする。では何故、日本は平和を掲げて軍隊を持たないのか。すべての人が個人として尊重されるために最高法規としての憲法が国家権力を制限している。日本国憲法は13条で「すべて国民は、個人として尊重される」とし、その中で幸福追求権も保障するとしている。一人ひとりの尊厳を打ち砕くのが戦争に他ならないからだ。
 憲法9条は、戦力は保持しない、交戦権は認めないと言い、平和的生存権という人権の形で平和を規定した。9条と平和的生存権はアジアの人たちから信頼を得る国際公約という重要な意味も持っている。戦力の不保持と交戦権の否認の9条2項は国連憲章を越えた先駆性がある。平和を人権という観点から規定したことは画期的なことだ。
 憲法9条は1項では、「国際紛争を解決する手段としては」という条件がついて戦争を永久に放棄している。2項では「前項の目的を達するため」という語句がついて戦力の保持と交戦権を否認している。9条の規範構造は、1項で「国際紛争を解決する手段」を「侵略戦争の手段」と読み、1項は侵略戦争を放棄しているだけで自衛戦争は認められるという考え方と、1項で「一切の紛争を解決する手段」とし全ての戦争を放棄しているという考え方に分かれる。2項では「前項の目的」をどう見るかで、「国際平和を誠実に希求する」か「侵略戦争放棄」かで、その結果、「自衛戦争は可能だ」と、「1項は侵略戦争を放棄しているだけだが、2項を通じて自衛戦争も放棄し、結果的に全ての戦争が放棄されている」に分かれる。日本政府は一貫して、侵略戦争のみならず自衛戦争も含めて一切の戦争を放棄しているとし、2項があるから集団的自衛権は行使できないし、海外での武力行使も出来ないと解釈してきた。(つづく)

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市民による国家の枠を越えた国際連帯の重要性

 「九条の会・わかやま」の呼びかけ人・江川治邦さん(エスぺランチスト・元和歌山ユネスコ協会事務局長)に寄稿していただきました。ご紹介します。

江川治邦さん

 来年に日本は戦後70年を迎える。今年のヨーロッパは第1次世界大戦開始から100年目であり、第2次世界大戦のノルマンディー上陸作戦から70年目となる。
 戦争は国家間の戦いであるが、戦争に対する国家の意志と国民の意志が各国でも乖離している現実がある。そこで戦争は往々にして国民多数の無関心・無知の中で、一部の国粋主義的政治家や偏狭的愛国主義者による煽動、上層軍部の暴走で勃発する。開戦すると言論の自由が奪われ、人権が踏みにじられ、国家主義がますます煽り立てられ、戦死者の増加で敵国への憎しみが増殖される。このため戦争終結は困難を極め、死傷者数は軍人よりも一般市民に多くなり、終戦時には勝者も敗者もともに疲弊する。戦争は無駄であり、環境破壊は言うに及ばず、蓄積してきた市民の文化遺産や生命財産が破壊されてしまう。
 戦争中の大震災も、政府や新聞などの報道規制により被災状況すら国民に隠される。被災者は国民支援を受けられず、物資が窮乏する中で自助だけで復旧する地獄の苦しみを生き抜くしかない。敗戦直前の1944年の東南海地震(M7・9、死者1223人)と45年の三河地震(M6・8、死者2306人)は戦中に隠された大震災で、戦争という人災が天災をより過酷にした事件であった。
 これらのことを日本人は身をもって体験し、廃墟の上に国民主権の平和憲法を手にした。にも拘らず今の為政者は、「国民の生命・財産を守るために軍備を強化し、戦争ができる国にしておくのが務めである」と、矛盾した主張を展開する。為政者が国家に責任を持つとは、本来的にそうではなかろう。戦争体験のない為政者は戦争の惨めさを想像できないのだろうか? 政治家である前に、人間としてのあるべき姿に立ち返って欲しいものだ。彼らの仕事は国民の福祉の充実と非戦による平和社会の構築であるべきだ。ユネスコ憲章前文冒頭を飾る有名な言葉に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」がある。これを補う言葉として「相互の風習や生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の人びととの間に疑念と不信を起し、それがしばしば戦争の原因となった」と述べている。世界平和の構築には、国家の枠を超えた市民間の国際交流・国際理解・多文化共生に向けた学習や交流、国際連帯が求められる。だが、インターネット時代とはいえ平和に向けた市民間の知的交流がまだ十分に成熟しているとは言い難い。そこには言葉の問題もあろう。
 私は60年前の高校時代から当時のチェコスロバキアの高校生(女性)と中立・公平で易しい世界共通語エスペラントで文通を続けて、社会主義国の人びとにも家族愛、他者への思いやり、人情深さがあり、日本人と同じであることを知った。定年退職後すぐに妻とチェコの彼女を訪問した。そこはポーランド国境に近く、日本人訪問者が初めてという町であり、彼女はソ連時代のマンション風の住宅に居住していた。日本人の私たちを見ようと近所の人々が集まり夕食を準備してくれた。訪問中は彼女の案内で古い教会を訪ね、屋根裏からパイプオルガンを手動で操作するフイゴなども見学し、町の小学校で日本の話をし、隣町にあるザトペック(52年ヘルシンキ・オリンピックのマラソンの優勝者)の家を見物した。また、車でポーランド国境を越えて2時間の所にあるアウシュビッツ強制収容所も一緒に訪ねた。収容所見学に付き合ってくれたポーランドのエスペランチストが近くの会員を集めて夕食会も開いてくれた。会食で私はアウシュビッツ強制収容所の印象を述べ、この強制収容所と広島の原爆ドームはともに人類の負の世界遺産であり、二度とこのような悲劇を繰り返してはいけないと強調した。日程を終えてチェコからオーストリアのウィーンに向かう列車に乗るため、私達をオストラヴァ駅まで彼女と息子さんが見送ってくれた。別れのプラットホームで演歌「悲しい酒」を披露し歌った。再び会えないかも知れない彼らは、涙を流しながら離れ行く私たちに向かっていつまでも手を振ってくれていた。このような関係を深め合った人たちが戦争で殺し合うことがきるだろうか? 私たちは戦争と平和に関して、人間として、地球市民として共に平和について辛抱強く地道に対話を深め、戦争に向けた国家の暴走を、国境を越えた国際連帯で阻止したいものである。

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【九条噺】

 S・I・ハヤカワ(1906~92年。米国の言語学者、政治家)の『思考と行動における言語・第2版』(原著1964年。大久保忠利訳65年)に「平凡なコトバの役割」の一節がある。「人に一致の機会を与えることがいかに必要かを示す事件がある」として、1942年初め日米開戦後のウィスコンシン州の小さな停車場での逸話を記す▼2、3時間の待ち合いのおり、スパイの噂が盛んで日系人の筆者に皆の目が集まり、特に子連れの夫婦が不安げだ。筆者は夫君に「寒い夜に汽車が遅れて困ります」と話しかけ、夫君は同意。「汽車の時間が当てにならない冬に子連れの旅は骨折れでしょう」と話しかけ、また同意。子どもの年齢を聞き、年の割に大きく丈夫そうだと話し、また同意。ほぐれて、男から筆者に「気を悪くなさらないで。日本人はこの戦争は勝てると思っていますか」と問い、筆者は新聞ラジオの論調どおり「日本は資源と工業力が限られアメリカのような工業国を破るのは難しいのでは」と答えると容易に一致し、男はほっとした。そして日本に縁者がいないか気遣う。父母と妹がいて連絡もできないと答えると夫婦は同情的になり、10分ほど話すうちに二人は筆者を家に招いて食事を共にする▼今、日中韓の政治関係は冷えている。中韓にも問題はあろうが、過去を否定し集団的自衛権容認で憲法9条を壊し、力で押す日本の問題が大きい。中韓の発想法を理解し一致を重ねて説得すべきだろう。(柏)

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当会呼びかけ人・宇江敏勝さん
熊野の伝説、『鬼の哭く山』出版

 熊野地方の自然や民俗・妖怪などのテーマを描き、「山の作家」として知られる田辺市中辺路町野中の宇江敏勝さんが、短編小説集『鬼の哭く山』を出版した。11年に初めて小説集を出版してから年1冊のペースで出版を続けており、今回の作品で4冊目だ。小説集は熊野古道や護摩壇山など熊野で暮らす人々を主人公に、熊野地方の伝説や怪談、民俗、人情などをテーマにしている。
 小説集の題名にもなっている作品「鬼の哭く山」は、修験道で知られる大峯山脈で山伏宿(奈良県下北山村)を営み、「最後の山人」と呼ばれた五鬼助義价(ごきじょよしとも)の生涯を描いた。宇江さんも親交があったという。
 他にも、熊野地方の妖怪で「ゆるキャラ」にもなっている妖怪ダルを描いた作品「亡者の辻」など新作4編を1冊にまとめた。『鬼の哭く山』は四六判、213ページ、2千円(税別)。
(朝日新聞9月20日和歌山版)

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和歌山県議会、日本会議の請願を可決
憲法改正の早期実現を求める


 9月26日、和歌山県議会は日本会議が提出した請願を受け「憲法改正の早期実現を国会に求める意見書」を可決しました。日本会議が昨秋から国民運動として提唱し、自民党会派が各都道府県議会で採決を主導しており、既に19県議会で可決されています。この意見書採択に反対したのは、共産党、改新クラブの一部、公明党、賛成したのは自民党、改新クラブの一部です。請願そのものに反対は共産党、改新クラブの一部、賛成は自民党、公明党、改新クラブの一部です。
 そもそも、憲法99条で憲法の尊重擁護義務は県会議員にも課せられているはず。県会議員がこのような意見書に賛成するのは憲法違反と言わなければなりません。

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(2014年10月2日入力)
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