7月29日の、和歌山大学近くのショッピングモールも含む北部のニュータウン「ふじと台」でのデモにつづき、今度は「楠見子連れ9条の会」から、10月31日(金)に「楠見でもデモ」をやります!とのお知らせが届きました。楠見は和歌山市の「紀の川」の北岸、国道26号線和歌山北バイパス辺りの地域です。 (http://home.384.jp/kashi/9jowaka/tirasi/kusumi-demo.htm)
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【九条噺】
今年のノーベル平和賞は、パキスタンの女子学生マララ・ユスフザイさんとインドのカイラシュ・サティヤルティさんに授与されることになった。世界中から推薦された278候補から選定されたという▼2人に讃辞を贈りたい。マララ・ユスフザイさんは13年12月28日付の本紙235号の「九条噺」で取り上げた。筆者(佐)氏は「私たちはすべての政府に子どもたちへの無料の義務教育を確実に与え、すべての政府がテロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。自分たちの言葉の力を信じ、教育という目標で連帯しましょう。1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界は変えられます」などの、国連での彼女の演説を「いやぁ、素晴らしい演説だった」と賞讃している▼ところで、今年の平和賞は「憲法9条」が話題になったが、「憲法9条を保持する日本国民」は残念ながら受賞を逃した。しかし、小森陽一「九条の会」事務局長は「今回、国内外で注目されたことで、解釈改憲など9条の理念と反対のことをしようとしている安倍政権のまやかしを浮き彫りにすることができた」と語っている。今後の受賞を期待したい▼もし、受賞したら日本国民の代表は誰か? 安倍首相か? 彼が苦虫を噛み潰したような顔で受け取る姿を想像すると楽しい。いや、ちょっと待て。来年の授賞式まで14カ月もある。それまで安倍政権を続けさせてはいけないのだった。(南)
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不条理な戦争
-軍隊や武器で紛争を解決する戦争は幻想だ- ①
当会呼びかけ人・江川治邦さん(エスぺランチスト)にご紹介いただいたレオ・ロベールさんの「不条理な戦争」を3回に分けてご紹介します。今回は1回目。
レオ・ロベールさん(フランス人・元小学校教師)
私の生まれは1914年7月3日。直後の8月2日、私の父は召集されて家に1カ月の赤ん坊と、6歳と2歳の3人の子どもを残して出征しました。父が召集解除されて家に帰ったのは4年4カ月後で、私はもう4歳になっていました。父も子どもたちも一緒に暮らす楽しみがなかったのです。幸い父は戦死することなく、見たところ元気に帰ってきました。しかし32年にわずか48歳で亡くなりました。多分17年の戦場で受けた毒ガスが原因でした。戦争に行く前は田舎の安サラリーマンでした。祖国を守るため52カ月の地獄の苦しみの後、相変わらずつつましい生活を続けていました。父が防衛に努めた祖国や資産家たちからの感謝が具体化したものは勲章! 彼が特に運がよかったと思わざるを得ないことは、戦死150万人、戦傷身体障害250万人の中に入らなかったことでしょうか。
父は当時の状況からあんな恐ろしい戦争は今後は起らないだろうと信じていました。ところが、彼の2人の息子が39年、第2次大戦に召集され、私も順番に戦場に駆り出されました。私は35年から37年まで、モロッコで兵役に服しました。モロッコは当時フランスの保護領で、私はモロッコ狙撃部隊に入りました。この時期、私はいわゆる敵を殺す教育に盲目的に服従し、多くを学びました。原住民に対するフランス職業軍人の幹部たちのきたないやり方も学びました。23歳の若い私にも考えさせられることでした。39年から40年にかけてその狙撃部隊は、フランス前線の最も危険なところに送られました。祖国を守るために。軍人たちの祖国を?
その後、私はその部隊から出ていわゆる「外人志願兵」からなる部隊に移りました。そう、正に志願兵。もし志願しなかったら国境から外に追い出すというから、強制的です。この部隊の大多数はユダヤ系の難民で、母国に帰ったらどんな目にあわされるかわからないことはよく知っていました。
私は重病にかかったので、うまく虎口を脱出できました。40年6月中頃、私は病後者としてボルドーにいました。町は避難者の車でごった返していたが、その車のほとんどは三色旗の印が付いた公用車であり、政府の役人や特に将軍とか上級将校たちが乗った車でした。一方フランスの田舎一帯には、何とか身をかわして退却のパニックで放り出された一般の兵や下級士官たちが避難していました。戦争の合間に望んで兵士の教育に当たっていた職業的祖国防衛者たちの良心的な態度の好例です。
45年4月、この年月を正確に記すのは重要です。というのは、終戦のわずか2カ月前なのに次のようなことがあったからです。海岸のロヤンという小さな町のあたりの狭いところにドイツ兵が捕虜として閉じ込められていました。脱走の望みは全然ありません。そこへある日、波が打ち寄せるようにアメリカの爆撃機が押し寄せ、なだれのように爆弾を投下し、ロヤンの町の100%を破壊しました。私はそれを遠くから見ていました。幸い住民は何カ月か前に退避していました。ドイツ兵も慎重に町の外でキャンプをしていました。完全に無駄な戦闘行為、明らかに。ただ破壊するだけのこと。なんと理不尽で無意味なことか!
大人の考え
教師として学校生活に責任のある私は、毎年の終戦記念の11月11日、生徒を連れて公式式典に参加せねばと思いました。祖国防衛者として戦場で命を捧げた人たちを偲ぶために立てられた記念碑の前です。市長も参戦者代表などの人たちも式辞を述べますが、誰一人として平和を大切にし、戦争に反対する強い活動に触れることなく、ただ祖国への献身、国家主義、偏狭な愛国主義を讃えるだけでした。これでは、また「敵」を倒すという敵愾心を育てるようなものではないでしょうか。なげかわしいです。私は自分の体験から、どの戦死者も自分の命を捧げようとは全面的に考えてもいなかったし、戦争中、愛国心は最高のものでもなかったと言えます。(つづく)
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