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「九条の会・わかやま」 258号を発行(2014年11月7日付)

 258号が7日付で発行されました。1面は、理想と現実が違うから憲法の存在意義がある(伊藤真さん C )、「集団的自衛権NO! 楠見でもデモ」実施、九条噺、2面は、侵略か自衛かを問わず軍隊を否定する日本国憲法(小林武さん A )、不条理な戦争 −軍隊や武器で紛争を解決する戦争は幻想だ−A  です。
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[本文から]

理想と現実が違うから憲法の存在意義がある

 9月16日、和歌山県民文化会館で和歌山弁護士会主催の市民集会が開催され、弁護士・伊藤真氏が「集団的自衛権とは何か〜その現状と問題点〜」と題して講演をされました。要旨を4回に分けてご紹介しています。今回は最終回。

伊藤真さん C

 多数意見が常に正しい訳ではない。多数意見でも奪えない価値、それを人権や平和として、頭が冷静な時に書き留めておく、この人権や平和を守るために国家権力を制限するのが憲法の役割だ。近代憲法共通の目的は人権保障だ。日本の憲法はさらに戦争放棄を目的にした。
 憲法は前文で「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、・・・この憲法を確定する」とした。主語は「日本国民」で、述語は「この憲法を確定する」だ。憲法を作った目的は「自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と、「この国に自由と人権をもたらすため」と「政府に二度と戦争をさせないため」の2つをはっきり掲げている。この2つの目的は、主権を国民に与えることによって実現するとした。主権が国民にあるということは、国民が自分の頭で考え、主体的に行動するということに他ならない。自由・人権の保障、戦争放棄、主権在民の日本国憲法の3原理が登場するが、3つは並列ではなく、人権の保障、戦争放棄が目的で、それを実現する手段が国民主権だ。国民が主体となってこの2つを達成するとしている。12条には「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と、国民の努力がなければ消えてなくなると言っている。戦前は天皇を始めとする者に黙って付いて来いと言い、付いて行けば何とかなると思って、とんでもないことになった。誰かに任せるのではなく、私たちが主体となって2つの目的を達成することを憲法は言う。憲法が縛りをかけるのは政治家、官僚、裁判官その他の公務員で、私たち国民に憲法を守る義務はない。憲法99条には国民を入れていない。我々は守る側ではなく守らせる側だ。国民が主体となって政治家たちに押し付ける命令書が憲法だ。国民が憲法を作って政治家、官僚たちに命令することが国民主権の本質だ。日本国憲法は個人の尊重のための立憲主義に立つ。これは他国と同じところ。非暴力平和主義は他国と違うところで、先進的なところだ。軍隊を持たない、集団的自衛権を行使しない、国連軍にも参加しないなどはわざとそうしたのであって、他国と違うのは価値があり、すばらしいことだ。自民党改憲草案はこれらを逆転させ、他国と同じところも、違うところもやめて、普通の国になろうと言っている。
 私たちに求められていることは、「主体的に生きる」と「おかしいと気付いた時には声をあげる」ことだ。憲法は理想だ。理想と現実が食い違うから憲法の存在意義がある。前文に「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と憲法自身が認めている。現実を少しでも前に進めるために憲法は存在する。憲法は突然生まれたものではない。自由民権運動、民主主義や自由を求める運動、反戦運動、男女平等運動、婦人参政権獲得運動、公害反対運動など様々な運動の英知がこの憲法に入り込んでいる。世界の人権や自由を勝ち取るためにたたかった人たちの思いもここに結集している。私たちは過去の先輩たち、未来の人たちに対する責任がある。慌てず、焦らず、諦めず、一歩一歩が大切だ。(おわり)

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「集団的自衛権NO! 楠見でもデモ」実施

 「楠見子連れ9条の会」が呼びかけた「戦争あかん!9条守ろう!集団的自衛権NO!楠見でもデモ」が約50人の参加で和歌山市・楠見地域で実施されました。これは7月29日の、和歌山市北部のニュータウン「ふじと台」でのデモに続く2回目の地域デモです。すっかり暗くなった夕刻、あいにくの小雨交じりの天候でしたが、ハロウィーンのこの日、多くの子どもたちもハロウィーンの仮装で参加し、「アンパンマンの歌」などを歌いながら、約2qを行進し、「戦争あかん!」と訴えました。







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【九条噺】

 本紙252号で、なかにし礼さんの詩「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」を紹介した▼筆者には「国のため? 大義のため?/そんなもののために/君は銃で人を狙えるのか/君は銃剣で人を刺せるのか/君は人々の上に爆弾を落とせるのか」という部分が強く心に迫る▼何の恨みもない人を殺せる訳がない。普通の人なら「殺されても、殺したくない」と思うのが当り前だろう。ところが実際の戦争は、個人の良心や感情を国家の強権がねじ伏せて、「殺人」を強要する。反抗すれば自分の命が危ない▼10年5月に亡くなり、「戦争出前噺」で有名だった本多立太郎さんが09年12月の「九条の会近畿ブロック交流集会」で話されている。「戦場では無数の死を見た。その死を私のこの手でやってしまった。これは何回語っても無念、恥ずかしく、悔しく、切ない。ある日、隊長に中国人の捕虜を処分せよと言われた。銃剣で胸を刺して殺す。いくら戦場といえども罪は罪。とうとう私はそれをやってしまった。命の極限の表情は70年経っても消えない。心に深い傷となって残っている」と▼その時、その後の本多さんの痛苦はいかばかりか。戦争の現実はこういうことだ。一個人の良心で拒否できるものではない。だから、私たち国民がそういう状況に追い込まれないように、国民多数の声・力で今から撥ね付けていかなければならないのだ。(南)

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侵略か自衛かを問わず軍隊を否定する日本国憲法

 10月18日、憲法9条を守る和歌山市共同センター秋の憲法学習会が和歌山県JAビルで開催され、沖縄大学客員教授・小林武氏が「戦争をする国にはさせない〜沖縄で考えること〜」と題して講演をされました。その要旨を3回に分けてご紹介しています。今回は2回目。

小林武さん A

 憲法の側から集団的自衛権の本質を押さえると、第1点は、憲法は個別的自衛権も武力によって行使することは認めていない。集団的自衛権が悪いと言うと個別的自衛権は良いと思えるが、原点に戻れば、日本国憲法は国家主権として自衛権を認めているが、必ず平和の手段で実現することを命じている。他国は軍隊を持つことを否定しないが、日本国憲法は侵略か自衛かを問わず軍隊を否定している。正しい憲法解釈からすれば自衛隊は憲法違反になるし、日本に駐留させている米軍も憲法違反になる。第2点は、集団的自衛権を認めてしまうと9条は有名無実になる。地球の裏側にまで出かけてアメリカの戦争に参加する国が平和憲法を持っていると言っても世界の国々は日本を平和国家としないだろう。日本は今日でもなお平和国家として世界に遇せられている。安倍首相は日本国憲法に守られて外交をし、日本国憲法を壊そうとしているのだ。第3点は、日本の統治構造の根本は憲法だが、集団的自衛権行使を認めるとそれは安保体制になる。日米安保は現代の「国体」だ。第4点は、軍事的な価値が社会の表面に出て、自由・平等・民主主義・国民主権の上に軍事が置かれ、「軍のために」ということが大きな力を持ってくる。現在、徴兵制は政府も含めて否定しているが、軍の価値が高まれば「徴兵制は苦役ではなく、気高い国民の義務だ」ということも考えられる。第5点は、憲法の根幹が解釈によって変更されるので、立憲主義が取り払われてしまう。
 安倍政権はどこから来たのか。55年の自民党結党時、政綱の中で自主憲法の制定を謳った。自主憲法の制定とは、今の憲法の基本原理を変えずに改正するのではなく、今の憲法を破棄して新しく作るということだ。これを墨守しているのが安倍首相だ。彼の考えは、「45年の敗戦から52年の独立までの占領体制の下で、戦争への反省という『自虐史観』に立つ『みっともない憲法』を『押しつけ』られた」だから「自主憲法を制定しなければならない」というものだ。占領下にあった7年間の「戦後レジーム」から速やかに脱却し、日本を海外でも戦争が出来る「美しい国」にする憲法に作り直すべきだというものだ。彼の祖父・岸信介元首相は安保条約を改定し日米の軍事同盟関係をより強めて退陣した。彼は岸信介元首相がやり遂げられなかったものをやろうとしている。彼はアメリカとの関係を重視し、対米従属下で軍事同盟を強化し、同時に日本が自立した強大な軍事大国になるという両面を持っている国家主義者だ。(つづく)

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不条理な戦争
−軍隊や武器で紛争を解決する戦争は幻想だ− A


「不条理な戦争」を3回に分けてご紹介しています。今回は2回目。(256号のつづき)

レオ・ロベールさん(フランス人・元小学校教師)

 エスペラントで外国と交流するうちに、私はどんな形の暴力にも、特に戦争に反対する信念や思いが一層かたくなりました。65年の世界大会(東京)で、若い日本人女性と知り合い、後に彼女は私のフランスの家で丸1年過ごし、ドイツのエスペランチストと国際結婚しました。彼らはその後も私たち夫婦の特別の子どもと思い、私たちもそうしてきました。フランス人の私はドイツ人に対して、これからは、あれほど何回もやったように銃を向けることができるでしょうか? また私の孫たちに、彼らの子どもたちを撃たせることができるでしょうか?
 78年、日本再訪問の時、日本のエスペランチストと広島を訪ね、原爆の野蛮な恐ろしさを証言するたくさんの絵や記録を長時間眺めました。普通の人間があんなことを本当にやるのでしょうか? その後の証言によれば、日本の政府当局は広島、長崎への原爆投下前にすでに敗北を認め、無条件降伏に署名する用意があると宣言していたのに。同じ証言によれば、アメリカの軍部は、「現実の状況」下で原爆の実験をやりたかったが故に、日本の宣言に同意しなかったという! その主張に対する討論に誰も否認しなかったと私は読みました。しかし結果は重大です。10万人以上が即死、そして今もその犠牲者が苦しんでいます。
 アイスランドの世界エスペラント大会で彼らの国の生活を見ました。軍隊を持たない真の人民共和国の好例です。この国は独立以来、自衛の軍隊を持っていないのに、どこからも攻撃を受けなかったのです。
 61年、私が初めて参加した世界エスペラント大会はベルギーのゲントで、その時の雰囲気に強い印象を持ち、考えさせられました。たくさんの国々から来た何百人もの人々が、そこで重大な話題について討論しました。時に興奮もしましたが常に平和的でした。文化の違い、民族の違いにもかかわらず、共に冗談を言い、笑い、沈黙し、歌を歌い、同じ反応を見せていました。こんなことを私は今まで見たことはありませんでした。そして、すぐにこんな思いが私の頭に湧き上がりました。なぜこんなによく似た人間どうしが時にお互いに殺し合うのか?(つづく)

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(2014年11月08日入力)
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