地域に刻まれた太平洋戦争の記憶を後世に伝えようと、和歌山市の中自治会と9条の会きしは、戦前、戦中の資料収集を始めた。空襲による当時の被害を記した地図作りを進めながら資料を集め、今年5月と7月には空襲展を開催した。地域住民が自分たちの手で戦争の記録を残す貴重な取り組みで、貴志公一自治会長は「当時はみんなが『生きよう』と必死になっていたが、今は自ら命を絶つ人が多い時代に変わってしまった。戦争を地元のこととして学び、命の尊さを次世代に伝えたい」と話している。
2008年に結成した9条の会きし。地域の有志が呼びかけて貴志地区だけで約200人が所属している。今年5月、結成2年を記念し空襲展を企画し、地域に残る戦争資料の収集を始めた。
しかし、当時の資料が見つからず、貴志地区の被害を記録した地図の作成に乗り出した。現在の地図をもとに各家庭を回り聞き取りを進めたが、その中で同会メンバーの一人である貴志自治会長は、高齢化が進み、亡くなったり当時の記録をなくしている人が多く、記憶の風化に強い危ぐを抱いた。
貴志会長は4歳で終戦を迎えたが、当時の記憶は鮮明に残っている。機銃掃射から逃れ、南海電鉄のトンネルに逃げ込んだり、兵士が寺に駐屯し自宅に風呂を借りに来たこと、若い兵士が上官に殴られる姿…。「少し前に地元であった出来事が『歴史』として現実から切り離されている」と地図作りに力が入った。
地図はメンバーの記憶に加え約10軒への聞き取りから、1940年代の家の並び方や、空襲の被害を受けた場所、焼けた家などを再現。その時の段階での調査成果を5月と7月の空襲展に展示した。また、呼びかけの効果で、資料も集まり始め、兵士が家族に宛てて綴った遺言書や、寄せ書きが書き込まれた日の丸の旗、焼け野原になった和歌山市の様子を写した写真などを並べた。7月の展示会には約50人が来場し、当時の様子を思い出すように資料に見入っていた。
訪れた中村美代さん(80)は「幼いころ友だちと遊んだ町が焼け野原になった。65年前を思い出し、今夜は眠れそうにありません。戦争は絶対にいけない」。中村覚さん(73)は「自宅の周囲4軒だけが燃やされたと思っていました。地区で61軒もの罹災があったとは」と驚いていた。
9条の会の牧野ひとみ事務局長は「まず事実を知らなければ関心を持ちようがない。地図はまだ完成ではないので聞き取りを続けたい」と話す。
元小学校教諭の貴志会長は「子どもたちや次の世代に地域の歴史を知ってほしい。次回は戦争経験者に当時の話を聞きたい」と抱負を語っている。
写真=手作りの地図を背に資料を持つ貴志会長(右)と牧野さん
※ニュース和歌山2010年8月7日号掲載
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