【東京新聞社説】 2013年1月7日
年のはじめに考える 瀬戸際に立たされる憲法

 太平洋戦争の敗戦から68年。日本の近現代史では過去になく、戦争をしない日々が続きます。年の初めに「平和だったはず」の戦後を振り返ります。

 1950(昭和25)年10月9日、東京新聞夕刊の一面トップは「米軍38度線を突破」の見出しで朝鮮戦争の戦況を伝えています。同じ面に「日警備艇も掃海へ」のベタ記事があります。「日本の沿岸警備艇12隻が米第7艦隊の指揮下で掃海作業に従事するため朝鮮水域に向け出発した」と短く報じています。

◆戦後にあった「戦死」
 日本を占領していた米軍は日本政府に対し、日本近海で機雷除去をしていた航路啓開隊(現海上自衛隊)の朝鮮戦争への派遣を求めました。同年10月から12月まで掃海艇46隻と旧海軍軍人1200人による日本特別掃海隊が朝鮮海峡へ送り込まれたのです。
 戦争放棄を定めた憲法は施行されていました。戦争中の機雷除去は戦闘行為ですが、国際的地位を高めようとした吉田茂首相の決断で憲法の枠を踏み越えたのです。
 まもなく事故が起こりました。掃海艇1隻が触雷し、沈没。中谷坂太郎さん=当時(21)=が行方不明となり、18人が重軽傷を負ったのです。事故は長い間伏せられ、中谷さんに戦没者勲章が贈られたのは約30年後のことでした。
 犠牲者が1人であろうが、家族の悲しみに変わりはありません。葬儀で中谷さんの父親はひと言もしゃべらず、葬儀の半年後、50歳代の若さで亡くなりました。
 朝鮮戦争に参加したのは旧軍人だけではありません。物資輸送に日本の船員が動員されたのです。8千人が日本を離れて活動し、戦争開始からの半年間で触雷などで56人が死亡したとされています(「朝鮮戦争と日本の関わり−忘れ去られた海上輸送」石丸安蔵防衛研究所戦史部所員)。

◆「国防軍」で何をする
 彼らの活動がサンフランシスコ講和条約の締結につながったとの説がありますが、確たることは分かりません。政府見解に従えば、海上輸送は憲法違反ではないはずですが、行われたことさえ「確認は困難」(中曽根内閣の政府答弁書)というのです。二度と戦争はごめんだという強い思いが事実を霧消させたのかもしれません。
 半世紀以上も憲法が変わらないのは国民の厭戦(えんせん)だけが理由ではありません。1995年の「村山談話」の通り、植民地支配と侵略によって多大な迷惑をかけたアジアの国々に、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを示し続ける必要があるからです。
 心配なのは、こうした見方を自虐史観と決めつけ、憲法改正を目指す動きが盛り上がっていることです。過去の“反省”を見直したうえで、自衛隊を「国防軍」に変え、集団的自衛権行使の容認に転じる。「国のかたち」が変わって誕生する、古くさい日本を中国や韓国が歓迎するでしょうか。歴史見直しは米紙ニューヨーク・タイムズも批判しています。
 国際社会が力によって成り立つ現実を無視するわけではありません。その力には政治力、軍事力などさまざまあるのです。
 例えば、20年続く自衛隊の海外派遣は国際貢献の文脈で行われてきました。国連平和維持活動(PKO)としてアフリカの南スーダンに派遣されている部隊は「国づくり」に貢献しています。
 国際緊急援助隊としての自衛隊は地震、津波などの被害に遭ったのべ12カ国で活動してきました。冷戦後、多くの国で国防費が削減され、軍隊の災害派遣が困難になる中で、自衛隊はむしろ積極的に活用されています。
 国際社会から「まじめで礼儀正しい」と高く評価されているのは、武力行使せず、「人助け」に徹してきたからです。わが国は、自衛隊という軍事組織を使いながら、巧みに「人間の安全保障力」を高めてきたのです。
 衆院選挙で憲法改正を公約した自民党などは、そうした現実を無視するのでしょうか。憲法を変えて何がしたいのか。米国が始める戦争に参戦する、日本維新の会の石原慎太郎代表が主張したように拉致問題を解決するため武力で脅すなど不安な光景が浮かびます。

◆平和は国民の願い
 安倍晋三首相は夏の参院選挙までタカ派色は封印するようです。不幸の先送りを隠す小手先の技と疑わざるを得ません。平和憲法は瀬戸際に立たされています。
 朝鮮戦争で機雷掃海に駆り出され、無事帰国した今井鉄太郎さんは本紙の取材にこう言いました。
 「(戦争に)行かされる者からすれば、出撃命令がかからず、一休みしている状態がいつまでも続いてほしい」
 平和を愛する国民の願いと考えるのです。

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(2013年1月14日入力)
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