朝日新聞社説 2014年3月3日
集団的自衛権 解釈で9条を変えるな
集団的自衛権とは何か。
日本に関係のある国が攻撃されたとき、自衛隊が反撃に加勢する権利である。
この権利を使うことは、何を意味するのか。
日本が直接攻撃されたわけではないのに、交戦国になるということだ。
日本国憲法のもと、この権利は認められるのか。
歴代内閣はこう答えてきた。「国際法では認められているが、憲法はこの権利を使うことを許してはいない」
これに対し、こんな批判もある。「持っているけど使えない。そんなおかしな議論をしているのは日本だけだ」
確かに日本だけの議論かもしれない。でもそれは、戦後日本が憲法9条による平和主義を厳しく守ってきたからこそだ。おかしいことではない。
安倍首相はいまの国会のうちに、集団的自衛権を使えるようにするつもりだ。
しかし、憲法改正の手続きはとらない。9条の解釈を改め、閣議決定するのだという。
憲法の精神に照らして、それは許されることではない。
「国民の手に憲法を取り戻す」。首相が繰り返すこの主張にも矛盾する。
■米国と憲法との間で
国民の安全を確実に守るにはどうしたらいいのか。自衛隊が世界の平和に貢献する道はどうあるべきか。
政府や国会がこうした議論をするのは当然のことだ。
冷戦は終わったが、テロや地域紛争が増えた。中国の台頭と北朝鮮の核開発で、東アジアの緊張は高まっている。安全保障環境は大きく変わった。
これにあわせ、政府は米国からの要請と9条との折り合いに四苦八苦しながら、自衛隊の活動範囲を広げてきた。
内閣法制局が集団的自衛権の行使を認めず、海外での武力行使はできないとしながらも、苦しい辻褄(つじつま)あわせを重ねてきたのも事実だ。イラクで自衛隊が活動できるとした「非戦闘地域」という考えはその典型だ。
首相はこんな安全保障政策の綱渡りを、一気に解消したいのだろう。ならばなおさら、正面からの議論が必要だ。
首相の手法は、意に沿う有識者懇談会に解釈変更を求める報告を出させ、それを追認しようというものだ。
首相に近い高官は、新しい解釈が成り立つならば、政府が状況の変化に応じて解釈を変更しても構わないという。
そうだろうか。
■立憲政治から外れる
日本は、自国を守るための必要最小限の実力しか持たない。海外で戦争はしない。
それは戦争の反省からうまれた平和主義であり、憲法の基本原理の一つだ。この原理は、自衛隊がPKOや人道復興支援で海外に出て行くようになっても変わっていない。
集団的自衛権をめぐる解釈は、国会での長年の議論を通じて定着した、いわば政府と国民との間の合意だ。
時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう。
集団的自衛権の容認が意味するのは9条の死文化だ。平和主義の根幹が変わる。自衛隊員が他国民を殺し、他国民に殺される可能性が格段に高まる。
それでも日本が国際社会に生きるために必要だというなら、国会での論戦に臨み、憲法96条が定めた改正手続きに沿って進めるのが筋道だ。
米軍が攻撃されたときに、自衛隊が集団的自衛権を行使して反撃する。これが懇談会の主な想定だ。だが、日本周辺で、米軍だけが自衛隊より先に攻撃を受けるという事態に、どれほどの現実味があるのか。
■「普通の軍」ありきか
いつでも集団的自衛権を使えるようにして、自衛隊を「普通の軍」にしたい。そんな理念が先走っていないか。それにこだわるあまり、領土を守ったり、PKOにもっと積極的に参加したりするにはどんな法制が必要かという、目の前にある課題の議論を妨げていないか。
日本が安全保障政策を改めるにあたっては、近隣諸国の理解を得るのが望ましいことはもちろんだ。
私たち日本人は、自衛隊が海外に出かけても、かつての日本軍のような暴走は決してしないと信じている。その信頼を、旧日本軍の被害にあった国々とも共有できるようにするのは、日本政府の責任である。
安倍政権は、その要請には全くこたえていない。
「侵略の定義は定まっていない」と語り、A級戦犯がまつられる靖国神社に参拝する。不信と反感をあおるばかりだ。
そんな政権が安保政策の大転換に突き進めば、中国は一層の軍拡の口実にするし、欧米諸国も不安を抱くに違いない。
それは、日本国民の利益と安全の確保、そして地域の平和と安定にも反する。
|