信濃毎日新聞 社説 2014年02月17日

自衛権発言 法治国家を崩す気か

 集団的自衛権の行使容認をめぐり政府の憲法解釈変更に意欲を見せる安倍晋三首相の近ごろの発言や姿勢は乱暴に過ぎる。
 「(政府の)最高責任者は内閣法制局長官ではない。私だ。政府の答弁に対しても私が責任を持っている」
 先週の衆院予算委員会での首相答弁である。一見、当たり前のことを言っているようにみえるけれど、そうではない。
 首相の胸三寸で憲法解釈を変えることができる、と言っているようなものだからだ。
 歴代政権は憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を禁じてきた。政府の「法の番人」と呼ばれる内閣法制局は、戦争放棄などを明記した憲法9条に照らし、専門家の立場から容認できないとの見解を示してきた。
 答弁は長年積み重ねた議論や法制局の役割を否定したと受け取られかねないものだ。
 そんなやり方がまかり通れば、時々の政権の意向で憲法解釈の変更が勝手にできることになってしまう。憲法は政治的な思惑で掘り崩され、民主主義や法の支配は名ばかりになる恐れがある。
 さらに問題なのは、世界の民主主義国家が共有し、憲法の根幹ともいうべき立憲主義を、首相がないがしろにしていることだ。
 個人の権利や自由を守るために憲法で国家の権力を縛る―。これが立憲主義である。
 今月初めの予算委では「王権が絶対権力を持っていた時代の考え方」だと、立憲主義を否定するような発言もしている。
 首相は今国会の施政方針演説で「自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが世界に繁栄をもたらす基盤であると信じます」と語っていた。集団的自衛権の行使容認のために首相が行おうとしていることは、この言葉と明らかに矛盾するものだ。
 安倍政権のブレーキ役を自任してきた公明党はその役割を果たせていない。野党第1党の民主党もがっぷり四つに戦えない。このままでは首相の思惑通りにことが進んでいく恐れすらあるのに、国会論戦は深まらない。
 集団的自衛権の行使容認は、日本が戦争ができる国になることを意味する。国民がどんな形で巻き込まれていくか、分からない。国民的議論が必要な問題だ。
 法の支配や民主主義を軽視するような首相のやり方を許していいのか。与野党問わず各議員は厳しい問いが突き付けられていることを肝に銘じてもらいたい。