東京新聞・中日新聞 2015年5月15日(金)
安保法制閣議決定 専守防衛の原点に返れ
安全保障法制が閣議決定された。海外での武力の行使に道を開く危うい法案だ。戦後貫いてきた「専守防衛」の原点に、いま一度返るべきではないか。
安倍内閣がきのう閣議決定したのは、集団的自衛権を行使できるようにするための自衛隊法改正案など、十の改正法案を束ねた「平和安全法制整備法案」と、自衛隊の海外派遣を随時可能とする新法「国際平和支援法案」だ。
これまで「安全保障法制」と呼んでいたものを、二つの法案を合わせて「平和安全法制」と言い換えたのも、「戦争法案」との批判を和らげる意図があるのだろう。
◆平和安全法制の欺瞞
それは欺瞞(ぎまん)である。呼び方をいかに変えようとも、法案が持つ本質は変わりようがない。
その本質は、自衛隊の活動内容や範囲が大幅に広げられ、戦闘に巻き込まれて犠牲を出したり、海外で武力の行使をする可能性が飛躍的に高くなる、ということだ。
こうした自衛隊活動に、憲法の揺るぎない裏付けと国民の大多数の理解と納得があるのならまだしも、海外での武力の行使は、自民党を含む歴代政権が憲法違反として認めてこなかったものである。
国会で積み重ねられた議論を無視して一内閣の判断で憲法解釈を変え、自衛隊を地球上のどこにでも派遣して武力の行使を認めることを、憲法破壊の暴挙と言わず何と言う。
思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が戦争放棄の「平和憲法」をつくり、それを守り抜いてきたのか。思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が「専守防衛」に徹してきたのか。
それは誤った政策判断により戦争に突入し、日本人だけで約三百十万人という犠牲を出した、先の大戦に対する痛切な反省からにほかならない。
◆憲法、条約の枠超える
専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とならない「平和国家」としての歩みが、国際社会で高い評価と尊敬を得て、日本の外交力の基礎となっていることに疑いの余地はない。
何よりも、軍事よりも経済、国民の暮らしを優先する政策は、戦後日本の繁栄の基礎となったことにも思いを至らせるべきだろう。
安倍内閣は、きょう国会に提出する法案が成立しても、戦後日本を貫く「専守防衛」政策に、いささかも揺るぎないと強調してはいる。果たしてそうだろうか。
専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使する、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略だ。
しかし、集団的自衛権の行使を認めることは、自らが攻撃されていなくても外国同士の戦争に参戦する、ということである。
集団的自衛権は国連憲章で加盟国に認められた権利だとはいえ、ベトナム戦争などその行使例を見れば、大国による軍事介入の正当化に使われたのが現実だ。
そのような軍事行動に踏み切りながら、「専守防衛」だと胸を張って言いきれるのだろうか。
整備法案では「周辺事態法」も改正され、日本周辺に事実上限られてきた米軍への後方支援の地理的制約が取り払われ、支援対象を米軍以外の外国軍にも広げる。
極東を対象範囲とした日米安全保障条約の枠組みを超えるが、条約改定も他国との新たな条約締結もない。憲法や条約があまりにも軽く扱われていないか。
新法の国際平和支援法案は、国際社会の平和と安全に対する脅威を取り除くために活動する外国軍隊を、自衛隊がいつでも後方支援できるようにする一般法だ。
地理的な制限はなく、米軍以外の外国軍隊も支援対象とする。
現に戦闘が行われている現場では実施しないとの条件付きだが、後方支援は戦闘行動と一体であり、戦闘現場以外での活動でも、いつ攻撃されるか分からない。攻撃されて反撃すれば、本格的な戦闘となるのは避けられまい。それでも「専守」を貫けるのか。
国会の事前承認を例外なく必要とするが、ならばこれまで同様、特別措置法で対応しても、国際的な責任は十分果たせるのではないか。新法の必要性に疑問が残る。
◆岐路に立つ自覚持ち
法案を提出する政府が憲法や条約をないがしろにする態度では、いくら審議時間を費やしても、法律に正統性は生まれまい。
戦後七十年の節目を生きる私たちは日本が今、重大な岐路に立っているとの自覚を持ち、平和憲法を守り、専守防衛を貫いてきた先人たちの思いを胸に刻みたい。
二度と侵略戦争はしない、自国防衛以外には武力の行使や威嚇はしないという戦後日本の原点に返れば、安倍政権が目指すものとは違う、日本の進むべき道がおのずから見えてくるはずだ。
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