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『第10回戦争体験と平和への思いを語り継ぐ会』 (資料編)

ご参加いただいたみなさまへ
                 
 2005年5月に「九条の会ゆら」を結成して以来毎年、町長さんと町議会議長さんのご挨拶やメッセージをいただきながら、また新聞報道関係のみなさんのご協力と、とりわけ毎回ご参加いただいた町内外の参加者のみなさまの励ましに支えられて、今年で満9年目を迎えることができました。「九条の会ゆら」の関係者一同ありがたく感謝申し上げている次第です。

 ところで先の戦争が終わって69年目の今年、戦後ずっと歴代内閣が忠実に守ってきた憲法の改正を正面から国民に問うことなく、たったひとつの内閣の閣議決定による解釈改憲で、日本をふたたび海外に出て戦争ができる国、戦争をする国に変える動きが急ピッチで進んでいます。海外に出て戦争をすることばかりが表面に出ていますが、そのことが逆にわが国への反撃やテロ攻撃を招いて、全土が焦土と化し、国民に多大な犠牲がでて悲惨な状況に陥る事態については国民に隠されたままです。

 新聞やテレビなどの大手メディアも、幹部たちが安倍首相とのたびかさなる会食で取り込まれて、ごく一部を除いて、ほとんど政府側の発表しか伝えなくなっている状況下で、国民的論議は封じられたまま、戦争をする国への動きだけが急速に進んでいるという危機的な状況にあります。

 果たしてそれでいいのか、いま一度実際に戦争を体験された方のお話をお聞きして、戦争の悲惨さと、戦争はふたたびしないと定めてこの70年近くひとりの戦死者も出さず、他国の人々と殺し殺されることもない平和と、世界トップクラスの経済的繁栄を日本国民にもたらしてくれた戦争放棄と不戦平和を定めた憲法第9条、それを土台にして作り上げられている平和憲法の大切さを学んでいただくいい機会となれば幸いと考えています。
 
今回の第10回語り継ぐ会の特徴

 今回は、由良町三尾川在住の山田康一(やすいち)さんのヒロシマ原爆の体験談をお聞きします。山田さんは、現代の戦争の悲惨さと恐ろしさの極限ともいえる原爆を、爆心地から数百メートルの広島第5師団司令部内の宿舎にいて体験し、その直後から10日間、救出活動に参加されて現地の惨状を身を以て体験し見聞されたという稀有な経歴をお持ちの方です。その体験をお聞きして現代の戦争の悲惨さを再認識していただき、それと比較することで、戦争をしない国づくりを定めた憲法第9条と、それを根底に置いて今日まで70年近く平和と経済的繁栄をこの国と私たちにもたらしてくれた現在の平和憲法の大切さをいまいちどみなさんで再確認する機会にしていただけたらと考えています。

特別報告『ヒロシマ 救援活動の10日間』 報告者 山田康一さん

山田康一さんの略歴
 1926年(大正15年)9月13日、旧衣奈村(現由良町)三尾川で生まれ、1945年(昭和20年)4月5日に18歳4か月で大阪府信太山の中部27部隊に入隊、直後から大砲と馬2000頭の取り扱いを中心に軍事訓練を受けています。6月10日に姫路連隊に転属し、ここで7月3日の深夜から4日未明にかけての姫路大空襲に遭遇し、寝泊まりしていた姫路城天守閣の最上階から炎上する姫路市街を眺めるという珍しい体験もされています。8月5日に上官の将校が広島の第5師団司令部へ出張するのに当番兵として随行し、5日夜は師団司令部内の宿舎に泊まりました。翌8月6日朝8時15分に宿舎内で大地震のような異常な激しい振れを体験、すぐに特殊爆弾と聞かされましたが間もなく原子爆弾らしいと聞かされています。原爆投下直後から8月15日の終戦で姫路に戻るまでの10日間を負傷者の救出活動に従事されましたが、この間、司令部からは、ここで支給する飲料水と食糧以外はいっさい口にしてはならないという厳しい命令を受けており、これを忠実に守ったことが、被爆直後のヒロシマで10日間も救援活動を続けながら無事に帰ってくることができた理由だろうとご自身は語っておられます。

 盛夏の炎天下で毎日、死体から出る脂でずるずる滑る死体を踏み分けながら負傷者を探し出す救出作業でしたが、これほど多くの人々を無残な目に合わせた米軍機がそのまま何事もなかったように飛び去っていったことで、その悪業を罰する神も仏もこの世にはないのかとも思ったそうです。またあたり一面に倒れたまま腐敗して膨れ上がっていく死体と、そこから発する異臭、市外から救出や捜索に来た何千何万の人たちが道端や空き地に残していく糞尿の悪臭など相まって、さながら地獄絵の世界を見ているようだったと当時のようすを語っておられます。8月15日の終戦で、鉄道が不通のため上官といっしょに漁船に便乗して姫路まで帰ってきましたが、その時に、こんな戦争は負けてよかったのだとつくづく思ったそうです。

読み聞かせ『原爆の火』について

 ポスターにある「読み聞かせ」は岩崎京子さんの文章、毛利まさみちさんの絵による絵本『原爆の火』(新日本出版社)を、スライドと平尾容子さんたちの語りで再構成したものです。

 『原爆の火』は、福岡県星野村の山本達雄さんが、広島で本屋さんをしていたおじさんの安否が気になって被爆直後のおじさんの本屋を訪ねたところ、おじさんの姿はなく、地下の倉庫の本だけが小さな炎を上げて燃え続けているのを見て、その小さな炎をおじさんの形見として持っていた懐炉に移して持ち帰り、その火を23年間家族でひっそりと守り続けていました。
 この事実を知った星野村の橋詰村長が村民と相談して、「世界平和への道しるべの火」にしようと役場前に建立した「平和の塔」にその火を移したのが始まりで、これがさらに福岡県の平和の塔の「平和の火」となり、広島の平和公園の「平和の火」になり、さらに全国各地の「平和の火」として広がっていった実話にもとづいています。
 平和の大切さを保育園・幼稚園・小中高校の児童生徒のみなさんとその保護者など若い人たちにも知っていただきたいという願いを込めて今回この読み聞かせ『原爆の火』を取り上げています。

由良女声合唱団が歌ってくださる3曲について

 『一本の鉛筆』は美空ひばりのためにつくられた歌です。1974年(昭和49年)の第1回広島平和音楽祭の総合演出を担当していた映画監督の松山善三が作詞し、作曲は大会の実行委員長だった古賀政男がすることになっていましたが、古賀政男が直前に脳梗塞で倒れたため、日本映画音楽の第1人者だった佐藤勝が急遽交代して作曲したものです。
 美空ひばりはこの歌を第1回広島平和音楽祭で歌っただけでなく、14年後の1988年(昭和63年)の第15回音楽祭でも歌っています。この時彼女は慢性肝炎と大腿骨骨頭壊死という重病と闘っており、音楽祭当日も楽屋に持ち込んだベッド上で点滴を打ちながら、ステージでは笑顔で歌っていました。歌い終えた彼女は「やっぱり来てよかった」と語ったといわれています。彼女は翌年6月に52歳で永眠していますから、美空ひばりが生涯の最後に歌った思い出の歌といえます。

 『長崎の鐘』は、放射線医療の研究中に大量の放射線を浴びて白血病にかかり余命3年と診断されていた長崎医大助教授の永井隆博士が、8月9日の長崎原爆で自らも頭部を負傷しながら、生き残った医師や看護婦とともに医療班を組織して被災者の救護活動に挺身しますが、9月に昏睡状態に陥り、翌年7月長崎駅頭で倒れてからは、病床に伏して闘病生活を続けながら原爆の悲惨さを訴える著作活動を続けた事実にもとづく歌です。
 博士が被爆の翌日、家に残していた妻が気がかりで家に戻ると家は跡形もなく、台所があったあたりに妻が身に着けていたロザリオと、焼け残った妻の骨盤と腰椎が黒い塊となって残っていたことも歌われています。博士は1951年(昭和26年)に43歳の若さで亡くなられています。

 『家族写真』 父母、兄弟姉妹、子どもたち、こうした家族の温もりを懐かしく思い出させる家族写真も平和な世であればこそです。戦争のない平和な世の中がいつまでも続きますよう心を込めて歌います。

連絡先:「九条の会ゆら」事務局
(事務局長 池本 護 TEL 0738−65−1273)
〒649-1111 和歌山県日高郡由良町里923−3
 Email : ikemoto.mamoru@silver.plala.or.jp