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涙流し沈黙強いられた 2・26事件の朝
声をあげ 抵抗するのは今しかない
92歳9条守る先頭に
【「戦争出前噺」1125回本多立太郎さん】
和歌山・みなべ町
和歌山県みなべ町の住民らでつくる「みなべ『九条の会』」(本多立太郎、尾中直次・両代表)は、住民過半数の署名をめざし、町内約四千六百世帯を網の目に取り組むため、各地域に二−三人、全体で百人程度の署名世話人づくりを始めています。
すでに「日本国憲法を変えないで九条を守り、平和のために生かすことを求める請願」署名の入ったビラは新聞に折り込まれ、全世帯に配布しました。
代表世話人の一人、「戦争出前噺(ばなし)」として全国で二十年間に千百二十五回の戦争体験を語ったことで知られる本多立太郎(ほ
んだ・りゅうたろう)さん(九二)に聞きました。
◇
二・二六事件の朝、東京朝日新聞で記者の卵をしていた私は、社に着くと反乱軍が玄関前に機銃を据え付けていたため、中に入ることができませんでした。
新聞社では朝日だけが占拠されました。私は外で体をふるわせ、くやしくて涙を流しました。私の後ろには黒山の群集がいました。シンと静まりかえり、誰もが沈黙を守っていました。
胸の中では反乱軍に怒りや「バカなことをするな」と叫んでいたことでしょう。しかし群集のなかに私服の憲兵、特高が紛れ込んでいるかもしれません。すでに治安維持法はありました。
一言叫べばどうなるか。声を上げたくても上げられない群集です。
戦争は別れと死
五十年後の一九八七年の憲法の日。朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ、小尻知博記者が殺されました。いくらでも声が上げられる時代、どれほどの群集が声を上げたでしょうか。
それから十九年。周辺事態法、イラク特措法。はっと気がついたとき、二・ニ六事件のときと同じ沈黙を強いられる群集にされてしまうのではないか。同じ道を歩かされているようにしか思えません。
抵抗するのは、声をあげるのは、今しかありません。
二十三日、中国から帰国したばかりです。行ったのは私が一回目の召集令状で行かされた南京郊外です。村人や南京師範大学の学生らと交流し、中日友好を誓い合いました。
中国で知らされた戦争はドンパチではありません。殺すか殺されるかの死があるだけでした。そして戦地に行く前には、親や子どもたち、妻、恋人、友人たちとの別れがあります。戦争とは、別れと死以外になにもありません。
主義主張でない
「戦争出前噺」を始めたのは、ただただかわいい孫のためです。この子に私の体験を味わわせたくないという思いからです。
小学校や中学校で質問すると、戦争体験を聞いている子が少ない。聞いていても「おなかがすいた」というような話が多い。政府に都合のよい教科書しかつくれない今、本当の戦争とはどんなものなのか、私の体験した事実を伝えなければと思ったからです。
主義主張とか大げさに構えて始めたのではありません。
九条の会の運動も、大げさに構えず、一人でも二人でもいいからの気持ちで、自分にやれることをやってほしい。それが集まれば大きな力になります。
2006年5月26日(金) 「しんぶん赤旗」 関西のページ
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